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戦国時代は挙げればキリが無い程、ライバル関係が多いと思いますし、ライバル関係でも切磋琢磨し合う仲なのか、はたまた「コイツは本当に嫌い!無理!」みたいな目の上のたんこぶ的な仲なのかとか色々とあると思いますが、ベターですが思い浮かぶのは豊臣秀吉公と徳川家康公ですかね😃
彼らは元々は織田信長公に仕えてましたが、ゆくゆくは天下の座をかけて行くような感じになりますし、唯一の直接対決である「小牧・長久手の戦い」では講和での停戦で直接的に決着がついていませんし、後に家康公は秀吉公に政治的な面から臣従しますが、お互い、色々と意識してたでしょうし何か思う事もあったのかも知れないと個人的には思ってます。
上記で記した事はあくまで自分なりの見解ですし、歴史は正解がないので自分の見解も正解だとは思っていないです。
実際に、ライバル関係と言われていた武将や大名がどんな感じだったのかを見てみたいものです😃
ベタベタですが、武田信玄公と上杉謙信公です。お互いの存在がお互いの領国運営や領土拡大などに影響を与えていると思います。3度におよぶ関ヶ原の合戦で、お互いの戦力を削り合っているところもあると思います。「敵に塩を贈る」のことわざにもなっていて、まさにライバルの関係だと思います。関ヶ原古戦場にある信玄公謙信公の一騎討ちの銅像は凄い迫力でした。
私の中では、ライバル関係は、お互い対等な力関係なのではないかと思っていて、その意味では、なかなか他に思いつきませんでした。
矢張り上杉謙信と武田信玄が真っ先に思い浮かびました。正に好敵手と言った印象で、信玄は自分の死後には上杉を頼るようにとも遺言しているそうで、相手の技量も見抜いて尊重している様にも思えます。
肥後半国をそれぞれ与えられた加藤清正と小西行長も、ライバルの印象があります。秀吉にはお互いを切磋琢磨させて、政権を支える武将に育て上げようという意図もあったのではないかと思います。
やっぱり戦国時代のライバルと言えば、頼山陽も鞭声粛々夜川をわたると吟っている川中島の戦いが思い浮かぶ武田信玄と上杉謙信ではないでしょうか。実力伯仲の二人は大将の一騎討ちとかエピソードにも事欠かないしこの二人意外にライバルはいないと思います。
ベタですが、武田信玄と上杉謙信です。
ベタですが、武田信玄と上杉謙信ですね。
~草木萌動~ブースカです。
「権六とサル」ですかね。
・本能寺の変の後、清洲会議で権六こと「鬼柴田」は憧れの
(すみません、諸説あると思いますが、そうあって欲しいという勝手な想像です)
浅井長政の妻だった「お市」を生涯の伴侶とし
賤ケ岳の戦いに敗れたのち
秀吉に攻められて炎の北ノ庄城での二人の最後に落涙。
~柴田勝家と羽柴秀吉はずっとライバルだったとわたしの中の想像です~
【竹中半兵衛と黒田官兵衛】
秀吉に仕えた軍師で両兵衛と呼ばれた「竹中半兵衛」と「黒田官兵衛」を思い浮かべました。
直接的に対立したことは無かったようですが、主君を同じく功を競いあうライバルとしてお互いに意識をしていたと思います。
最終的に、半兵衛が官兵衛の嫡男である松寿丸をかくまい命を救うなどライバルを超えた友情も感じました。
戦国時代におけるライバルと言えば、武田信玄と上杉謙信を思い浮かべました。
3年前に川中島古戦場跡に行った時に見た信玄と謙信の一騎打ち像が印象に残っています。
しかし、今の学会の見解では一騎打ちはなかったとの学説が大勢をしめているようです。
後世に作られたお話だとしても信玄と謙信は良きライバルだと思います。
戦国の世においては、東北地方から九州までの多くの戦国大名が覇を競い、領土争いを繰り広げたので皆がライバルと言うのも正しいのかもしれないですね。
その中でも有名なのは、やはり武田信玄と上杉謙信だと思います。有名な善光寺があり、各地への交通の要衝である川中島の地を争った2人には逸話もおおいですね。
その後謙信が亡くなった後におき、越後全土に広がった内乱である「御館の乱」で争った上杉景勝と景虎の関係もライバルといえばライバルになるかと思います。兄弟や親族間の家督争いも多い時代ですものね。
岩崎城の戦いで三河中入隊を足止めし戦った丹羽氏重と池田恒興・元助親子も因縁の相手柄ではあります。
あとは厳島の戦いで、安芸国を巡る戦いを行った陶晴賢と毛利元就もライバルな印象があります。
写真は長尾景虎への最前線、海津城改めて松代城です。(丁度、太鼓門前橋が掛け替えの時の写真です。)
住んでいるところが越後国、春日山なのでやはり謙信公と武田信玄公です。川中島の合戦舞台が近いこともあり山城が多くありがたいです。
ライバルと言うと、何度も戦って明確な勝敗がつかなかった関係でしょうか? これだと、有名な信玄と謙信になっちゃうように思います。誰が跡目を継ぐかだと、勝家vs秀吉ですが、お互いにライバルとは思っていなそうです。最近、新発田に訪問したこともあり、上杉景虎vs上杉景勝はどうでしょう。家中の多数派工作とか、今の会社にもありそうな話です
やはり「武田信玄」と「上杉謙信」です。
ある意味、正反対の二人ですけど、もしかしたらお互い気にしていたのかもと思っています。
真っ先に思い浮かぶのは上杉謙信と武田信玄ですね。川中島の古戦場に一度行きましたがここで両雄が戦ったと思うと感慨深くなりました。また信玄はそれほど城を築いていないイメージですが、武田流の馬出などの築城技術のある城を訪問すると嬉しくなります。また春日山城には行ったことがないですが、謙信が攻めた関東の城を訪問するとそれだけで嬉しくなります。それだけ2人の両雄が最大のライバルで偉大な人物だったのだと思います。
武田氏が好きですので、パッと思い浮かぶのは、信玄公と謙信公です。どちらも戦に強くて、カリスマ性抜群✨
5度に及ぶ川中島の戦いでは、勝敗がつかなかった。(私は心の中で武田の勝利と思い、甥っ子は、上杉の勝利と言ってます😆)
そして、信玄公の遺言の中には、自分が なき後には謙信と和睦するように。若い勝頼を痛めつける事はしないだろう、、、とあるようなので😊そんな所も理由の一つです。
宿敵の意味で
「武田信玄と上杉謙信」です。
桶狭間の戦いや厳島の戦いなど、有名な大名間の戦闘は勝敗が明らかなケースが多いのに、川中島の戦いは足掛け12年、5度も対峙して痛み分け…互いのプライドとリスペクトが感じられます。好敵手とも言えますね。(北信濃の支配権を維持した信玄の勝ちといえば勝ちかもですが)
競争相手の意味なら、
「秀吉と光秀」です。
やはり(信玄&謙信)がド定番ですけど、尾張住みなので、織田信長家臣団(羽柴秀吉&柴田勝家)も浮かびます。
強力な求心力の信長存命の時は切磋琢磨しあうよいライバルだったのでしょうね。
恋のライバルだったかも?というのもちょっと面白いし💓
結果的には、智謀で神速な秀吉に勝家が負けたというイメージを持っていましたが、賤ヶ岳合戦の城砦をチョコチョコ巡っているうちに
(勝家さんもやるなぁ)という印象を持ちます。
ただ、秀吉と同じ土俵に立つには、何はともあれ山崎合戦(対明智合戦)に参戦しなきゃいけなかったかな〜と思ってしまいます。
写真は行市山砦から見た秀吉方砦群です。
あまり詳しくは無いのですが…里見VS北条かな。数回激しく戦っているので。
しょうもない理由ですが、自分は『新八犬伝』で育った世代なので「里見」と聞くと心がおどります。「忘八」の八をすらすら言えて漢字で書けるのも、八犬士のおかげです。「頑張れ里見!」とついつい応援してしまいます。(八犬伝はフィクションですけどね。)推しの里見のライバルは北条かな?と思い、書いてみました。ちなみに里見城は地元の上野国にあります!笑
お題を見て真っ先に浮かんだのは、明智光秀と豊臣秀吉ですね。二人とも出自も経歴も必ずしも明確でないのに、織田信長はその才能を見出して、両者を競い合わせるようにして育て、織田軍のいわゆる方面司令官に取り立てています。光秀も秀吉も互いをライバルとして意識していたと思います。光秀は、信長から毛利攻め応援を命ぜられ、結果的に秀吉の指揮下に入ることになることを嫌い、本能寺に向かったという説もありますから。本能寺がなければ、光秀も秀吉も織田政権下の大大名になっていたかもしれません。しかし、私は、信長は江戸時代のような大名制度ではなく、もっと強力な中央集権を企画していたように思います。したがって、光秀も秀吉も対処を誤ると、信長に廃されていたかもしれません。 写真は天王山(2023.09.15撮影)
戦国時代のライバルといえば上杉と武田、戦国三英傑、柴田と羽柴、北条vs扇谷上杉vs山内上杉などを思い浮かべるかと思いますが、私は大内vs尼子vs毛利を推します。
中国地方は毛利が台頭する前は大内と尼子でほぼ二分されて争われており、畿内以外の西日本では最大のライバルのイメージが強いですね。そこに毛利元就の手腕で毛利氏が割って入り、大寧寺の変によって大内氏が滅亡し(本当は少し違うが割愛します)、最終的には毛利氏が陶晴賢と尼子氏を倒して中国地方を統一しました。写真は2022年6月に攻城した時の月山富田城の本丸の写真です。中国地方は尼子氏本拠地の富田城しか行ったことがないので、機会があれば大内氏館や毛利本拠地の安芸高田城にも行ってみたいです。
九鬼嘉隆と村上武吉を挙げさせていただきたいと思います。九鬼嘉隆は織田信長に仕えた「九鬼水軍」の総大将で、村上武吉は毛利輝元に仕えた「村上水軍」の総大将ですが、織田と毛利が激突した第一次木津川口の戦いでは、村上水軍は「焙烙(ほうろく)」という火薬を詰めた爆弾を投げ込み、「火矢(火をつけた矢)」を巧みに使って織田船団(九鬼水軍)を焼き払って村上水軍が勝利しました。しかし織田信長が九鬼嘉隆に燃えない鉄製の船を建造するように命じて、「焙烙・火矢」も効かない鉄甲船6隻を伊勢で建造させました。そして第二次木津川口の戦いでは、厚い鉄板で覆われた鉄甲船に「焙烙・火矢」は通用せず、九鬼嘉隆は大砲・大鉄砲を打ち込んで集中攻撃するという戦術を取り、村上水軍を打ち崩したそうです。このように2度にわたり海で激戦を繰り広げた2人は海賊のライバルだと思います。写真は村上海賊ミュージアムの村上武吉公の像です。
さて真っ先に思い浮かぶのは武田信玄、上杉謙信でしょうか。
何度も同じ相手と戦をするのは、戦国の常でしょうが、知名度的にこの二人がダントツすぎる気がします。
私としては、断然武田信玄と上杉謙信の二人でしょう。川中島で5度も戦って、結局勝負がつかなかった。ライバルじゃなければ、さっさと戦う先を変えると思います。あと戦さと関係ないですが、信玄の駿河侵攻の際、今川氏真に塩止めされた時、謙信が戦さと関係ないと越後から塩を送ったなんか、本当に清々しいライバルかなと私思いました。
武田信玄と上杉謙信です。
およそ12年にわたり計5回の川中島合戦にて両雄あいまみえましたから。
領土の拡大を目論む信玄とそうはさせじとする謙信という構図でしょうか。
全体的に見ると武田軍優勢ですが、戦力は拮抗しており、12年間の双方の領土は大して変わっていないことからも多くのリソースを割いていたものと思います。
写真は第4次川中島合戦のおり、戦場にて武田信玄を発見した上杉謙信が信玄に斬りかかった場面をモチーフとした銅像(2009/11/22撮影)ですが、躍動感があり、個人的にお気に入りの銅像の一つです。
武田信玄と上杉謙信ですね5回も合戦して決着つかない永遠のライバル。残された資料ではお互いを認めあっていたみたいなのも理由です。
毛利と尼子ですかね。(毛利と陶もありか・・・うーん・・・)
有名どころは沢山いましょうが、広島、いや中国地方推しのワタクシとしましては、この二氏は外せません。
吉田郡山城、月山富田城・・・いずれも難攻な山城で武と知の戦い(寝返りに次ぐ寝返り、裏切りってのは、時代的に仕方ないけど、あまりかっこ良くない気もするけれども・・・)が繰り広げられたんだということは、その足で登ってみれば納得できます。
毛利元就と尼子晴久・・・二氏を巡る、城や世界遺産の存在も、興味深いところです。
歴史って知れば知るほど奥深くて面白いです。理由になってなくてすみません。
武田信玄と上杉謙信!
武田信玄と上杉謙信
尼子晴久と毛利元就
畠山義就と畠山政長