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宮崎県
甲斐宗運公
阿蘇氏の家臣で、大勢力の大友氏・龍造寺氏・島津氏の狭間で、阿蘇氏の生き残りに尽力した戦国武将です。
因みに父方は、姓名、高千穂ルーツ、家紋などから甲斐家の家系になります。
毎日、小牧山を眺めているので、織田信長ですかね
信長の生まれは少し離れた所ですが、小牧山城は信長が初めて自分で作った城。
山頂からの眺めは360度あり、南を向けば那古野、清洲、熱田の地を眺められ、
北を向けば、遠く稲葉山城が見渡せ、その後ろには伊吹山。伊吹山を越えれば近江です。
当時、どのように眺めていたのか偲ばれます
また、千田嘉博先生が以前TVで言っていた、小牧長久手の戦いの際、三河中入り隊を追う家康軍に秀吉が気が付かなかったのは、地元の民が徳川勢に味方していたからだと、尾張の地は織田の地だと言われていたのを思い出します。
ところどころにある信長の足跡を探して回るのも楽しいですね
兵庫といえばやっぱり黒田官兵衛!!
日の本を代表する天才軍師。姫路城まるごと秀吉に明け渡したり、中国大返しを進言したのも官兵衛とされていて(本当かどうかは??)、大胆かつ冷静で頭のキレる男。
両兵衛こと、黒田官兵衛と竹中半兵衛の夢の共演があったらなぁ…
陶晴賢
三重県なので生まれ育った都道府県、といえば初代藩主の藤堂高虎になると思います。けれど地域で言えば戦国武将に分類されるのかは分かりませんが、近くに天正伊賀の乱で最後まで籠城した柏原城跡があるので個人的には百地丹波になります(勘違いしておられる方がけっこういるので声を大にして言いますが天正伊賀の乱の激戦地、最後の地は断じて現在の「伊賀市」ではありません、違う市です!)百地さんという苗字の方ちらほらおられます。「百々」という地名もありますよ。
下野国 芳賀高定
早乙女坂合戦からの宇都宮氏が本拠の宇都宮城を奪われてから後の宇都宮広綱の宇都宮城奪還に大貢献した武将
愛知県の代表として、尾張藩の初代藩主【徳川義直】を選んでみました。初陣は大阪冬の陣なので、ぎりぎり戦国武将でしょうか。
徳川家康の9男で、家康が57歳のときに誕生しています。三代将軍の家光の叔父になりますが、年齢が3歳差で兄弟のような微妙な関係です。
真面目で実直な性格だったようで、藩政も自ら行い尾張藩の基礎を築きあげました。義直の藩政は今日の愛知県・名古屋市の発展につながったと思います。
岐阜県在住の自分が考える岐阜県を代表する戦国武将といえば、やはり織田信長公です。現在の岐阜県に縁のある戦国武将は数多いですが、岐阜城を本拠とし天下布武を推し進めた足跡は非常に大きいと考えます。
北条氏康
上杉、武田、今川と戦ったり、同盟を結んだりしながら関東の領土を広げていった知将です。
徳川家康公 徳川幕府260年の基礎を築いた武将であり戦乱の世を終わらせた英雄ではないだろうかと考えます。
岐阜県民ですが斎藤道三を推します。道三とは何者か?と物心つかない子供の頃からCMの道三めんで名前に耳なじみがあり、また岐阜市内では毎年4月に名前を冠した道三まつりが開催されているくらい身近な武将だと思っています。
また、JR岐阜駅前に金の像があり、10月にはこちらも名前を冠したまつりが開催される織田信長も代表する武将だと思います。ただし両名とも他国出身なので、生粋の地元産まれから選ぶとすれば、やはり地元も地元の竹中半兵衛でしょうか。写真は三武将に縁のある岐阜城です。
愛知県や東海地方は特に有名な武将が多いので迷いますね…。
私の地元で言えば、水野信元を推したいと思います。水野信元は尾張国知多郡東部、三河国碧海郡西部を領した武将であり、緒川城を本拠にした水野宗家・緒川水野氏の家督を継いでいます。皆様ご存知の通り異母妹に於大の方がおり、徳川家康の伯父にあたる人物です。
信元の功績としては、知多半島統一を成した事、桶狭間の戦い後に大高城から松平元康(のちの家康)を落ち延びさせた事、信長と家康の清洲同盟の仲介役として取り持った事が挙げられるかと思います。
その後も家康の援軍として三河一向一揆の和睦の仲介をし、姉川の戦い、三方ヶ原の戦いへの参陣、長島一向一揆討伐、長篠の戦いにも加わり信長・家康と共に戦国時代ド真ん中を駆け抜けてきたのもすごい!
信元の最後は悲しい結末ですが、戦国時代ド真ん中に活躍し後世に伝わる姿は同じ地元出身としてとても誇りに思います。
岡山県代表の戦国武将と言えば岡山城主の宇喜多秀家ではないでしょうか。梟雄として有名な宇喜多直家が父親ですし五大老の一人でもあります。関ヶ原の後八丈島に流されたエピソードも有名です。私個人としては三村家親 元親親子が好きなんですけどね。
福島県は広いですから、地域によって推しの戦国武将は様々じゃないかと思います。福島市を中心とした県北地方で言うなら、伊達稙宗(塵芥集の制定、桑折西山城の築城、息子・晴宗と、南奥羽を巻き込んだ壮大な親子喧嘩を繰り広げた)ですかね。高校日本史の教科書には、大概名前が載ってます(分国法の制定で)。でも、県民にアンケート取ったら、曾孫の伊達政宗が1位になりそう。現代の感覚なら山形県出身で、福島県で名を成し、後年宮城県に本拠地を移した人物って感じですが(笑)。まあ、個人的な本音で言えば、福島市大森出身の伊達成実が県の代表です。理由は、俳優・三浦友和氏のイメージでカッコいいから‼
三好長慶。最近再評価されていますよね。地元でも人気が高まりつつあり、町おこしにも生かされています。
さて、生まれ育った地域は札幌なので、戦国時代どころか、お武家様にも縁の無い地域です。
まあ、今は上京して武蔵国在住なら天下の江戸城、太田道灌か、徳川家康になるでしょう。
もはやネームドとして、理由すらいらないとも思えます。
今在住の愛知県を代表する戦国武将‥思い浮かぶのは、ド定番ですけど、やっぱり織田信長公です。
尾張で生まれ育った信長公。初めて城主となったのも、初めてお城を築いたのも尾張国です。
実は21年という人生の半分近い時間が那古野城時代とされ、那古野、清洲、小牧城の身軽で刺激的な青年時代にリーダー力や(天下布武)のビジョンを持つに至ったんだろうな、と思います。
写真は雪がちょっと残る那古野城趾碑です。
私は東京に住んでいますので、戦国武将と言えばやはり徳川家康となります。
なんたって、現在の首都東京の基礎となる江戸の礎を作った人で、最期は神様になられました。
家康さんがいなければ、もしかすると首都は京都だったかもしれません。
太田道灌です。
@武蔵国(東京、埼玉、神奈川東部)
大名ではなく扇谷上杉氏の家宰ですし小田原北条氏が台頭する前なので全国的にはマイナーかもしれませんが、武蔵国で活躍した戦国武将といえば道灌だと思います。小学生のときから知ってますので…
広島県の代表戦国武将といえば、毛利元就です。「元就。」というテレビ番組もあるくらい(アンガールズさんMC)広島は毛利元就推しでやってます(多分)。一代で中国地方統一を成し遂げたり、三矢の訓も有名です。(三矢の訓については、先日吉田郡山城の民族館を訪れた時に、諸説あると学びましたが・・・)
群馬県(上野国)は関東管領山内上杉家が居た為、戦国大名に成長する事が困難なお国柄でした。近隣に 武田家・長尾家(上杉家)・後北条家・古河公方家 が跋扈する中、下剋上を成功させた 由良成繁 を代表として挙げたいと思います。
新田家の流れをくむ 岩松氏 から新田金山城を奪い独立。山内上杉家・後北条家・上杉家・後北条家 と次々と主君を変え生き残る様は真田家に近いものがあります。又、奥様の妙印尼も戦国期有数の烈女として知られ成繁の息子 国繁 らが後北条家の人質となっても71歳の妙印尼が家臣を率いて籠城し、講和に持ち込みました。
由良成繁と妙印尼が礎を築いた由良家は 豊臣家・徳川家 に仕えて小大名ながら家を存続させました。
織田色が強いエリアに住んでいますが、あえて出身地の兵庫県伊丹市の戦国武将、荒木村重を推します。ただ地元での知名度は薄いです。華々しい戦歴が伝わってるわけもなく、織田を裏切ったとか、妻子を残して逃げたとか、のイメージが先行してか、学校でも教えてもらっていません。私自身も『へうげもの』の茶道具背負って逃げる姿や『センゴク天正記』のおどおどした姿が定着してしまってます。ただ戦国大名にまでなったカリスマ性が何かあったのでは、と信じ、本日購入した『黒牢城』を読もうと思います。
自分は東京生まれで中学高校は埼玉で育ち、最近まで川越に住んでいましたので、江戸城や河越城(川越城)や大築城にゆかりのある太田道灌です。川越城(川越市役所)とJR越生駅前に銅像が建ってます。
そういえば練馬区の小学校の低学年だった頃、郷土の授業をした際に、太田道灌に攻め滅ぼされた石神井城主豊島氏の照姫伝説を勉強したことにより、太田道灌は子供心に悪者として認識しました(笑)
ただ歴史好きになってからは北条早雲と並ぶ戦国期の名将の一人になりました。
ちなみに写真は太田道灌が鷹狩りの帰りに雨宿りで立ち寄った埼玉県越生町にある県指定旧跡の山吹の里です。
徳川家康です。
浜松に住んでますので
愛知県、徳川家康。
天下統一、江戸幕府を開府し安定した長期政権の礎を築いた事。
私が育った地域での代表する戦国武将としては、里見氏を挙げさせていただきます。里見氏の中では、里見義堯、里見義弘の両武将を挙げさせていただきます。拠点が房総半島の真下の安房からだったし、関東には後北条氏が一大勢力だったこともあり、広げられた版図も房総半島くらいでしたが、その一大勢力の後北条氏と真っ向から戦っていたことからも誇らしい、地元の戦国武将です。
もう一つは、千葉氏です。戦国時代には、衰退の一途ではありましたし、どちらかというと、鎌倉時代に千葉常胤が一大勢力を築いた一族ですが、その後、日本各地に広がっていて、相馬氏など、戦国期に影響を与えた一族の源になる一族でしたので、挙げさせていただきます。
茨城県と言えば小田氏治です。本拠地の小田城を何度追われても、その後何度も小田城を奪い返しています。「戦国時代最弱武将」「常陸の不死鳥」などと言われているそうです。しかしながら領内では人望があり、追われる度に地元民の協力を得て何度も返り咲く様は氏治公の人徳なのかなとも思います。そんなところが自分は結構好きだったりします。写真は土浦市にある小田氏の菩提寺である大雄山法雲寺です。境内には小田氏治の供養塔もあります。
東京なんですが、意外と難しいですねw
戦国武将で東京といえば後北条氏ということになりますけど、北条氏は小田原を根城にしていたことから神奈川県のイメージが強いですから。
徳川家康も江戸幕府を開きましたから候補になるのでしょうが、どうしても静岡県や愛知県のイメージがあるんですよね。
他には、、、この方でしょうか。
太田道灌。
何せ東京を代表するお城、江戸城を築城したお方が道灌殿とされていますので
(道灌殿はなかなかの機動力をお持ちのようで現在の埼玉、東京、神奈川など南関東全域に出没しておられます)。
とりわけ現代の東京都には縁があったようで銅像なども割と設置されていますので、東京の代表としては太田道灌でよろしいのではないかと思います。
写真はJR日暮里駅前の太田道灌像です(2022/5/3撮影)。
東京都
徳川家康
戦国乱世に終止符を打ち、江戸幕府を開いた。
上野国在住の私の推しは、上泉伊勢守(信綱)です。えー!戦国武将?違うだろ〜という声が聞こえてきそうですが、若い頃は立派な戦国武将でした。主君、長野業正の箕輪城で、武田信玄の軍勢を六回跳ね除けた際、業正から上野国一本槍(最も武勇に優れた武将)と認められた。そして落城の際は、信玄に命を救われ、是非召し抱えたいと言われる。しかし、他家への仕官を絶対にしないことを条件に、「新陰流」を広める旅へ。その後は、まさに無敵。天皇と将軍から天下一と言われ、後に剣聖と呼ばれた…らしいです。(本を読み始めたばかり)上泉城には、銅像もあります。かっこいい〜と思います。
大阪府に生まれて現在も住んでます。大阪府の戦国武将と言えば、三好長慶では無いでしょうか。戦国の3英傑より以前に畿内を抑えた実績は凄いのではないでしょうか。ヨーロッパにも三好の名は知れ渡っていたようですし、私は三好長慶を推しまーす。
私は兵庫県に住んでいるので、兵庫県出身の有名な武将で思い浮かんだのが、黒田官兵衛の嫡男の黒田長政です。長政は永禄11年(1568年)12月3日、黒田官兵衛と正室・櫛橋光の嫡男として姫路城で生まれ、九州平定、文禄・慶長の役で活躍し、特に関ヶ原の戦いでは東軍につき一番の功労者として称えられ、徳川家康より筑前国名島に52万3千余石の封を受け、福岡藩を立藩し初代藩主となったことで知られています。ではなぜ黒田官兵衛ではなく、長政を選んだのかというと大分県にある山城愛好家の間で有名なあの「長岩城」を落城させたことが個人的に一番大きな理由です。すでに行かれた団員さんなら身に染みてご存知だと思いますが、黒田軍はあの要塞をひるまずに入れ替わり立ち替わり、絶壁をよじ登って三之城戸まで攻め入って3日3晩の攻防戦を制したそうです。なかなか真似できないと思ったので、黒田長政を兵庫県の代表として選びました。
奈良と言えば、三大梟雄爆弾正松永久秀と言いたいのですが、秀吉の天下統一を助けた天下一の補佐役「豊臣秀長」です。今につながる大和郡山の町の礎を作ったのは秀長公に他ありません。豊臣家のNo.2でありながら、偉ばらず、また表に出ることも、記録に残すこともなく、その人格は尊敬すべきものです。もしもう少し長く生きていたら、徳川の世にはならなかっただろうと言われています。再来年の大河で今注目ですが、月影の男秀長公は、草葉でどう思っておられるでしょうか。奈良代表豊臣秀長で決まりです。
京都府を代表する戦国武将と言えば・・・、意外と難しいです。
本能寺の変の織田信長、丹波亀山城や福知山城の明智光秀、天王山の合戦や聚楽第、伏見桃山城の豊臣秀吉、二条城の築城主である徳川家康。
本当はガラシャ夫人(細川玉さん)を推したいのですが武将じゃないので、そのお父さんの明智光秀とします。
京都府、それも丹波地方は明智光秀ゆかりのおしろが多いです。
また私の本城の勝竜寺城も明智光秀が最期を迎える前に立ち寄った城なので。
千葉県を代表する戦国武将は里見義堯ではないかと思います。
現住所は安房ではなく下総です。下総といえば千葉氏ですが、入れ替わりが激しくこの人というのが思いつきませんでした。
里見氏は安房を中心に北条氏と激戦を繰り広げているところからも存在感があります。
生まれは熊本県です。加藤さん小西さん細川さんはよそから来られた方なので、
肥後ネイティブとしては相良義陽殿でしょうか。かの島津氏とも渡り合い(最終的に降伏しましたが……)、鎌倉時代から続く相良氏が幕末まで存続する礎となった人物です。
兵庫県で一番活躍した武将と言えば軍師黒田官兵衛ですね。
明智光秀