みんなの回答一覧
圧倒的な健康長寿の人物、とのイメージです。
倹約や粗食、武術の鍛練や薬の調合等々、普段から自分のできる最善の行動を日常的に続けてきたから家康だからこそ、当時としては異例の健康寿命を維持し続けて、戦国時代の最終勝者になれたのでしょう。
私は実は三英傑の中では徳川家康がいちばんすきなのですよ。
よくある陰謀家とか、我慢強いとかじゃなく、この人はその時々を精一杯生き残ることに全フリした半生だと思っています。
幼少期の不遇から青年期の独立から奮戦までは、衛星国の当主として涙ぐましいものがあります。
秀吉による天下が定まってからは、なんとなく充実して楽しそうに見えるのは気の所為では無いと思っています。
最後に天下を取ったことに色々言う人がいるけど、順番がまわってきただけだと考えています。
それでも世界でも類を見ない天下泰平260年の礎を築いたことは偉大な功績であり、賞されて当然だと思います。
年代によってイメージが変わるのと、大河ドラマの影響を受けています。
若いときは「直虎」の家康、少し変わり者だけど運と実力を兼ねそなえ、一族を率いるカリスマ性を感じました。
壮年は「真田丸」の家康、見た目も言動も貫禄が出てきて、当主としての安心感を感じます。
晩年は「軍師官兵衛」の家康、秀吉の死後は天下人への執念を見せ、その狡猾さに恐怖すら感じます。
『どうする家康』
このフレーズに集約されてると思います。
今川義元、信長、光秀、秀吉。あと武田に真田、さらに一向宗も。何度も何度も窮地を脱し、天下人になった逆転人生のひとですよね。
三英傑のホトトギス川柳、
『鳴くまで待とう』
って「寝て待つ」のではなく、「チャンスを狙う」って意味だと思うんです。実際は。
下請けの社長の息子が苦労、辛抱、成長して大企業の会長にまでなったイメージです。今川の下請けで人質に取られ、新興企業(織田信長)に親会社(今川)をつぶされますが、何とか織田と同盟関係(と言っても上下関係は明確ですが)となります。ところが若気の至りで敵対企業(武田信玄)にこっぴどくやられます。敵対企業は息子(勝頼)の時代に吸収しますが、上司(信長)は同僚(明智光秀)の裏切りで死んでしまいます。
今度はTOPに立てるかと思いきや、またもや同僚(羽柴秀吉)に先を越され辛抱を強いられます。この間の苦労、辛抱が良い経験となり「こうすれば人は動く(ついてくる)、動かない」の判断、タイミングなどを学び大企業の社長に成長し、これまたいいタイミングで会長(院政?)に退いたと思います。
一言で言うと辛抱強いと思います。今川と織田の人質時代を辛抱強く耐え、信長との友好関係を辛抱強く守り、武田方の高天神城を辛抱強く攻め落とし、秀吉との戦いで小牧山城の籠城・野戦で辛抱強く戦い、秀吉の寿命が尽きるのを辛抱強く待ち、豊臣家を辛抱強く追い込んで滅ぼす。とにかく辛抱するのも程があると思います。
生涯を通してその時の自分をどう見せるかということにこだわり演技し続けた人物だと思います。
若い頃は人質として、さらには信長との過酷な同盟関係、そして秀吉への臣従に耐えているフリをして秀吉にして『徳川内府殿はさても律儀な方」と言わしめる演技を貫き通し、天下を取った晩年には家臣や諸国の大名だけでなく秀忠をはじめとした息子達にも自分を大きく見せる演技をし続けたお陰でより一層家康像が巨大になり徳川家が250年続く礎を築いたのだと思っています。
特に自分を一回裏切った本多正信を腹心として登用するあたり自分を殺さなければ決してできない凄みを感じます。
一言で言うと、「先々のことまで長い目で見通せる人」。「忍耐の人」というイメージも、短視眼的に物事を見たり一時的な感情に流されて物事を判断したりしなかったが故という気がします。江戸の都市計画や江戸幕府の線路を敷いた政策などを見ても、先々を見通す能力に感服するばかりです。
「誰一人として背中を向けて死んでいる者はおらぬ」三方原の戦いで勝利した武田信玄が、三河武士恐るるに足らずと語った家臣をたしなめた言葉です。この戦いでは家康を逃がすため影武者となって命を落とした家臣もたくさんいます。晩年は狸親父のイメージがあり、あまり好きではありませんが、今川家の人質時代に岡崎の領地を視察した際に、田植えをしていた家臣の元に駆け寄り、不憫な生活をさせて申し訳ないと詫びた頃から家臣団と強い絆で結ばれていたのだと思います。
テレビの影響を受けているかもしれませんが、憎めない狸親父といったイメージでしょうか。しかし、織田信長、豊臣秀吉の良い点を参考に200年以上続いた江戸幕府の基礎を造った功績に対して「あっぱれ!!」をあげたいと思います。
「腹の中が読めない狸」とか、世間一般のイメージは、あまり良くなさそうですが、私の中ではそんなに悪くないです。食うか食われるかの戦国時代、生き残るためには多少の非情さがなければだめだったと思います。結果的に260年続く太平の世を築き上げたのですから立派なものだと思います。息子達の五月人形を揃える頃は、武将兜、特に伊達政宗兜が大流行でした。徳川家康の兜は人気薄(笑)でしたが、敢えて「天下を取った」ことを理由に選んだことを思い出しました。
徳川家康
信長、秀吉存命の頃は快男児と言う印象であるが秀吉没後は良くも悪くもやりたい放題と言う感じ。
三成だって家康に助けを求めているし、関ヶ原では寝返ってまで家康に味方している大名もいるくらい次の天下人は家康だと周りは認めているのだからもう少し良いイメージを残せなかったか。
今言われている狸親父そのまま。
家康
一言で言えばバラサ大名の大親分と言うところか?
難しい事はおいといて
どうしてもドラマのビジュアルに引っ張られちゃうので、津川雅彦のイメージです。
徳川家康のあだ名の「狸親父」を名乗っているので投稿せざるをえませんね。家康は家族的には恵まれていません。生母とはすぐに離別し、幼少時に父も暗殺されてしまったので兄弟がいません。また、今川義元の姪とされる築山殿と結婚して長男信康をもうけますが、結局は妻子を殺すことになります。その後、家康は正妻を娶っていません(秀吉の妹の朝日姫は実質は人質です)。一方で、幸運の持ち主と思います。桶狭間、三方ヶ原などの合戦だけでなく、領国での一向一揆との戦いや本能寺の変の際の逃亡劇でも命の危険にさらされています。さらに、関ケ原の合戦でも負ける可能性もかなりあったと言われていますが、いずれも生き延びて、結局は天下を統一しました。ところで、家康が三方ヶ原の敗戦直後に慢心の戒めのため描かせたとされる「しかみ像」は、根拠となる文献がなく、徳川美術館を創設した徳川義親 が1936年にその旨の発言をしたことが伝わったものとされています。
イメージとしては、なにしろ強運の持ち主であり、今年の大河ドラマ第25話のサブタイトル「天が望んだ男」とは頼朝大好き武将の家康の事じゃない?みたいなイメージです。
あとは、仏の教えを旗印(厭離穢土欣求浄土)とし、神(東照大権現)となった神仏習合を体現したような天下人。という印象の武将です。
添付写真は8年前に浜松のホテル宴会場で撮った家康くんと私のツーショットですw
家康公が幼少期、織田家の人質で幽閉されていた熱田羽城が近所です。
今川の人質へ行く所を拉致・織田方に売られたというのが通説でしたが、愛知県史では戦に負けた広忠により織田方に人質にされたとなっています。
熱田羽城主加藤家は豪商、賑わっている熱田湊の要塞のような城で竹千代も大事な扱いを受け、加藤家のお姫様とは一緒に遊んだりしていたそうです。その時のお人形が嫁入り道具に入っていて、残っているそう(*^^*) 後に加藤家に良い処遇を施しています。
その後の駿府の人質生活でも雪斎に教育を受けているし、辛い事もあったかもしれませんが一国の嫡男でぬくぬく育てられるよりグローバルさ・忍耐力が育まれたのかなと思えます。
という訳で、やはり家康公には「忍耐」のイメージがあります。
熱田湊から熱田羽城方面を望んでみました。
あくまで、私の勝手なイメージですが、いろんなドラマなどの影響なんだと思いますが、武将のイメージより、政治的な能力の高いイメージです。最近、総理大臣だったら、みたいな本が出たりして、そのイメージはより強くなっています。実際、当時としても、世界最大の都市を作り、現在にも続く江戸=東京を作り上げた手腕は素晴らしいな、と思います。
その政治的手腕を支えたのは、人心掌握術や人を見る能力の高さでもあり、三河武士の忠誠心の高さなどにも現れていると思いますし、旧武田家臣団を多く取り立てたという逸話にも表れていると思います。
政治的手腕の高さには、罠に嵌めて追い落としたりのような意味での“政治的な”部分もたかく、いわゆる狸親父のような一面での能力の高さでもあり、私は、その点、あまり好きにはなれません。
“人の一生は重荷を負て遠き道をゆくが如し いそぐべからず ” から始まる「遺訓」。子どもの頃、実家にこれが書いてある鏡付き壁掛けがありました。なにかの記念品ですかね?はぁ~この人、苦労したんだねぇ…と子ども心に思ったものです。そして、この頃のイメージのままです。「我慢の人」そんな感じでしょうか?
ちなみに個人的には判官贔屓でして、家康さんよりも、家康さんに負けた人々の方が好きだったりして?!
蛇足ですが、壁掛けは、福沢諭吉バージョンもありました。昭和時代に流行した壁掛けなのか?
イメージでと言うことなので、「忍耐の人」でいきたいと思います。
数々の修羅場や無理難題を堪え忍んできたからこそ、最後に笑うことができたんじゃないかなと。
まぁ諸説ありますが、そうであって欲しいなぁって希望です。
人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。
勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。
おのれを責めて人をせむるな。
及ばざるは過ぎたるよりまされり。
↑
徳川家康公の遺訓といわれるものです。
私の座右の銘であり、家康公のイメージも概ねこのような感じですね。
生い立ちからなのか自身をとても律している人物だったのではと思います。
写真は岡崎城の家康像です(2011/10/23撮影)。
パッと真っ先に思い浮かんだ家康公の姿が「津川雅彦さん」でした。
そのため、今回のテーマに合ってはいないと思いますが、私は「津川雅彦さん」とさせていただきたく思います…。
どちらかというと、これだとテーマが「あなたの津川雅彦さんに対するイメージを教えてください」の方が正しいですかね…。
苦労人。様々な困難に対して必死に乗り越えた人。というイメージです。
有名な伊賀越えもそうですし、関ヶ原合戦に至るまでに100通以上の書状を諸大名に送っているところなど必死さが滲み出ています。
昔の小説、ドラマでは先々を見通して罠にはめるような描き方をされがちでしたが、最近は変わってきているように感じます。真田丸でも腹黒さは健在でしたが必死さは面白おかしく描かれていました。
来年の大河ドラマはそのタイトルからも必死な家康を見られるのではと期待してます。
イケイケ、負けず嫌いで実は短気。それでもって意外と律儀。家康としては若い時から死ぬまでその性格は貫き通されていた気がします。武田とともに今川を攻めるも氏真は殺さない。手を組んだ武田がちょっかいを出してくるとこれを許さず、織田、上杉、北条などを巻き込んでたとえ正面衝突したら負ける相手でも決して怯まない。秀吉死後の豊臣も本当に滅ぼす気が最初からあったのかどうか。