読者投稿欄

「攻城団」では不定期にさまざまなお題で読者(団員)からの投稿を募集しています。少し時間のかかるお題もあるかと思いますが、みなさんの率直なご意見をお送りください。

今回のお題

攻城団編集部さんの質問

「忠臣」と聞いて思い浮かぶ戦国武将・大名は誰ですか?

その理由もあわせて教えてください

みんなの回答一覧

28人の団員から回答が寄せられました。ありがとうございます!

「忠臣蔵」というそのままな作品タイトルがあるので即思い浮かんだのは赤穂四十七士ですけど、エピソードから思い浮かぶのは石田三成、森蘭丸、直江兼続、本多忠勝です。

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藤式部卿さん

忠臣とは何ぞや?
広辞苑によると「忠義な家臣」とありますね。
個人的な解釈として「殿様がどうしようもないボンクラで、御家が傾いても命を賭して最後まで踏み留まる家来」ってイメージでしょうか。
それなら今川氏真から「忠功比類なし」の感状を受けた岡部元信はどうでしょう?元信は、鳴海城開城と引き替えに、今川義元の首級を織田方から取り返しています。

締切後に編集されました

利信さん

忠臣ですか。
国人連合が主体の戦国大名では意外に難しいですよね。

幽閉された黒田官兵衛を救出した栗山利安(栗山善助)や母里太兵衛を挙げたいですね。

三河武士団も好きなんですけどね。
三河武士の鑑鳥居元忠は理想ですよね


あぶさんさん

主君のために命を投げ出す事はもちろん、間違った行動をしっかり戒める事が出来る人物が忠臣だと思います。思い浮かぶのは、離反激しい大友家を最後まで支えた立花道雪と高橋紹運です。
立花道雪は三州(薩摩・大隅・日向)統一に向け勢いのある島津家との衝突は不利と見て、戦は避ける様に進言しています。自身は反対の意思を貫き不参加だった耳川で大友軍が大敗を喫すると、激しく主君の宗麟を叱責しています。
高橋紹運は道雪亡き後の主家を支えます。島津軍が大友領に侵攻すると岩屋城で一手に引き付け、秀吉軍が到着するまでの捨て駒となります。
二人が守った大友家はその後、二人の薫陶を受けた立花宗茂までも豊臣家に取り立てられるという形で失います。次の時代の忠臣となるであろう貴重な人材を差し出したという点で大友家は終わったとも言えます。


赤い☆稲妻さん

イメージですが
◆加藤清正
◆本多忠勝
◆片倉景綱
◆直江兼続
あたりでしょうか?


猫セブンさん

徳川十六神将『鳥居元忠』ですね。
徳川家康が竹千代の頃から側に仕え家康、徳川家に捧げた人生。最期は後に関ヶ原合戦へと繋がる伏見城の戦いで玉砕覚悟で家康より伏見城を預かり、石田三成ら豊臣方と戦い命まで捧げてしまう生き方で江戸幕府の礎となったのです。これぞ忠臣ではないでしょうか。壮絶すぎます。もちろん元忠にそう決心させる魅力が家康にはあったのだと思います。


伝もものふ山田(ヤマー)さん

【鳥居強右衛門(とりいすねえもん)】
武将・大名でなく足軽になりますが、鳥居強右衛門が思い浮かびました。
武田軍に包囲され絶体絶命となった長篠城、その城から抜け出し援軍要請に向かった勇気、最期に命を顧みず味方を鼓舞する姿は、主君、仲間への強い忠義心を感じます。
その忠義心は敵にも認められ、武田家家臣の落合左平次は強右衛門の最期の姿を旗指物として使用したほどでした。
武田家衰退のきっかけは、強右衛門の勇気ある行動から始まったとも思えます。


syama1957さん

戸次(立花)道雪と共に個人的には決して名君とは思えない大友宗麟を支えた高橋紹運を推します。島津の猛攻を受け最後まで防御の薄い岩屋城を死守、散った紹運の遺志は、その子立花宗茂に強く受け継がれていると感じます。


黒まめさん

紀州徳川家初代徳川頼宣の傅役であり、付家老として藩政を支えた安藤直次でしょうか。榎本先生の連載でも付家老については出てきましたが、安藤家も3万8800石の大名並みの石高でありながら、幕府中枢では陪臣にすぎないという扱いを受けるという悲哀を味わっています。戦国武将としても、姉川の戦い、長篠の戦い、小牧・長久手の戦いなどに家康の忠臣として参戦し、功を立てたという記録も残っています。


ぐこさん

主君とともに戦国の世を駆け抜けた忠臣。主君に右向け右ではなく、戦場で命を掛けるだけなく、お家を統率する主君を強くより良い方向に導いたり、諫めたりする事も大事な条件かな、と思います!
というわけで、片倉小十郎景綱公です。
これを機会に強い主君になって欲しい気持ち溢れる「右目えぐり出し」の逸話や政宗公まで引き気味の「主君より先に子を成せない」逸話だけでなく、自分を盾にして政宗公を救った人取橋の戦いや外交でも大活躍しています。なんだか熱い所も素敵です。
そして政宗公をお祀りしている神社で代々宮司をされているのが景綱公の子孫の方だそうで、やはりとても胸熱です。
今年の始めは、ワクチンも秋には普及してコロナも終息かな?と展望していて、白石城も候補に入れた初東北旅行を考えていたんですが…また行けるようになった時の為に練っておこうと思います。


もときさん

鳥居元忠です。
関ヶ原の戦いの前哨戦のひとつ、伏見城の戦いで散った元忠。今川家の人質だった頃から家康に仕え、生涯徳川家に忠義を尽くしました。
会津征伐に向かう大軍を率いる家康と大坂城に程近い伏見城の留守居には少数の兵でよいとする元忠。長年苦楽を共にした主君と家臣の姿は対照的で、別れの晩酌エピソードは涙モノです。
関ヶ原の戦いの後、元忠の血糊が着いた伏見城の床板は徳川家ゆかりの寺院に、畳は江戸城の伏見櫓にそれぞれ掲げられたそうですね。
武士の鑑。映画にしてほしいです。


龍神さん

石田三成。
秀吉の亡き豊臣家を支え、豊臣家のために関ヶ原の戦いを起こしたから。


ロンさんさん

豊臣家に忠誠を尽くした加藤清正です。秀吉の下で武功を重ねて大名にまで出世し、築城の名手としても知られる人物ですが、江戸幕府開府後も豊臣家と徳川家の融和に向けて尽力しました。「有事の際に秀頼を匿うため、熊本城の本丸御殿に昭君之間を設けた」等、有名な逸話も多数あります。
ちなみに、忠臣といえば楠木正成が一番に思い浮かびましたが、戦国武将ではないので今回は対象外です。


狸親父さん

平手政秀。織田信長の傅役となり次席家老を務めた武将です。高校生時に山岡荘八の「織田信長」を読み「信長が父信秀の葬儀の際、抹香を鷲掴みにして祭壇にぶん投げるなどの奇行をしたことを憂い、自身の死で諌めるため 切腹した」と知って感動し、ずっと忠臣として尊敬していました。後年になって「政秀は信長と次第に不和になり、信長の実直でない様を恨んで自刃したとされている」などの説を知りましたが、私の中ではいまだに山岡説が支配しています。政秀は、斎藤道三との和睦を成立させ、信長と濃姫の婚約を取りまとめたり、朝廷との交渉活動も担当するなど外交面で活躍しただけでなく、茶道や和歌などに通じた文化人でもありました。3年前に政秀の居館跡の志賀城を攻城した際も感慨深いものがありました。昨年の大河ドラマ「麒麟が来る」では、政秀は、反信長勢力との調整に難航したので誠意を見せるために腹を切ったと描かれていたようでしたが、信長はたいした感情も見せず、政秀を小物のような言い方をしていたのが、残念でした。


きんかん頭さん

鳥居元忠
昔、TBSで放映された「関ヶ原」での伏見城内の別れのシーンは印象的でした。
森繁役の家康、元忠役の芦田伸介?さんもはまってましたね。
とにかく考えられない位の豪華出演陣でした。バブル期は制作費も潤沢だったのでしょうね。


きゃみさんさん

戦前の教科書にも取り上げられていた「山中 幸盛」(鹿介)です。
地元周辺で活躍したので思入れがあって出生地の月山富田城、幽閉された尾高城、尼子復興軍の拠点の若桜鬼ヶ城、最後に籠もった上月城、謀殺された備中松山城下の阿井の渡し(胴塚)、鞆城下・静観寺の首塚、鹿野城下・幸盛寺のお墓と巡礼しました。


たなとすさん

鍋島直茂
佐賀城本丸御殿で購入した葉隠物語のコミック版を読んで、下克上できる実力がありながらも、主家を立てていたことに感動したため。


けんじさん

忠臣と言えば、吉川広家を置いて他にいないでしょう。
長門周防の大大名となれる沙汰を返上して、主家毛利を守ったのは、普通の人には出来ない事だと思います。
私が広家だったら、家康の沙汰を喜んで拝受してます。
自分も毛利元就の孫だから、後で毛利を名乗れば毛利家は存続する訳だし。


thomasさん

言わずもがなで、高橋城運ですね。
斜陽の大友家に忠義を尽くし、最後は城兵ことごとく討死。
部下からも慕われていた名将だと思います。


しのはさん

色々な人物が浮かぶのですが、決定打がなく絞り込めないので
ちょっと意外な人物を挙げようかと思います。

藤堂高虎です。
主君を何度も変えたというイメージがあると思いますが、豊臣秀長に仕えてからは
高い能力を発揮して秀長を支えていました。
秀長死後は養子の秀保に仕え、秀保が早世してしまうと出家して高野山に上る
というなかなかの忠臣ぶりを発揮しています。

徳川家康からも信頼があつく、外様でありながら重要拠点の伊勢を与えられています。
能力が高いから優遇されただけでは?という見方もあると思いますが、
すぐに裏切りそうな人物であればさすがに潰されていたと思います。

藤堂高虎を中心に見ていくと、私は高虎こそ忠臣と言えるのではないかと。
そう考えます。


Sさん

織田信長の教育係であった平手政秀ですね。
信長の奇行を案じ、切腹という形で諫めるという説が有名ですが、一説によると政秀の長男の五郎右衛門の馬を信長が欲しがり、それを拒否した結果、信長の逆恨みを買ったため政秀は信長と不仲になり切腹したというものもあります。
ただ、どちらの説にしても信長の将来を案じているものでありますし、政秀の死後、信長は政秀寺という寺を建立して弔っていることから信長にとっては忠臣という位置づけだったのだと思います。

石田三成


じろべえさん

片倉小十郎景綱、直江兼続、石田三成を推薦します!


わっしょいさん

忠臣と聞くとやはり三河武士、そして三河武士と言えば鳥居元忠です。
現代人が思い浮かべる「武士」の典型で、江戸期から現代へ通じる価値観や倫理観(良い意味でも悪い意味でも)のモデルとなった人物の1人だと思います。


のぶしげさん

真田信繁殿。
豊臣家の為に、最期まで知略を尽くして戦った。家康からの再三の調略を跳ね除け、ひたすら「勝つ」為に。
滅びの美学よりも、最期まで「勝つ」に拘った生き様の方が、グッと胸に刺さります。


傾奇御免さん

思いつくのは、直江山城、石田治部、大谷刑部、本田佐渡守、片倉小十郎景綱、典厩信繁でしょうかね。


しぇるふぁさん

「忠臣」と呼ばれる武将はやはり直江兼続が挙げられますね。2009年には主役となった大河ドラマ「天地人」が放送され、妻夫木聡さんが熱演したのも話題となりましたね。
兼続は「愛」の前立て兜が有名ですが、上杉景勝股肱の臣で、上杉家のブレーンとして奔走した知将としても知られています。
また、関ケ原の戦いの後に上杉景勝が米沢へ転封させられた際も、一緒に同行して運命を共にした逸話も残っており、この辺が「忠臣」と呼べる理由ですね。
 
他に挙げますと、やはり徳川家康傘下の徳川四天王(本多忠勝、榊原康政、酒井忠次、井伊直政)は忠臣と呼べるのではないでしょうか。その中で本多忠勝は、姉川の戦い、伊賀越え、小牧長久手の戦い、関ケ原の戦いにおいて顕著な功績を残しており、特に忠臣と呼べると思います。

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