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実行犯は明智光秀本人です。
自分は明智光秀単独説だと思っています。確かに本能寺の変後の秀吉の動きが余りにも見事過ぎたので「秀吉黒幕説」と以前は思っていました。
信長の息子たちの処遇も含めて。
「光秀単独説」のなかでも、「光秀心労説」だと自分は思います。
明智光秀は足利義昭を伴ってからは信長に非常に重要されてきました。
光秀自身、マジメで仕事熱心、部下思い、民思いと超優秀な人物だった事だと…
戦になれば丹波攻めの他、ほぼ主要な戦に駆り出されて休める時が少なかったのでは!
実際体調を壊してもいますし、最愛の妻も亡くしています。
極め付けは、「四国征伐」だったのでは?
長宗我部元親との交渉役で一時期は信長▪️元親の関係も良く上手くいっていたはずなのに、信長が四国▪️三好一族と仲良くなった途端、元親に約束反古!
更にその頃の信長は、一族を優遇して「織田政権」を推し進めていたなんて話も聞きます。
秀吉も光秀と同じような立場だったと思います。
「筑前守」▪️「日向守」この意味!
「苦しゅうない!、自由に投稿を許す。」との仰せなので、私見を書かせて頂きます。新参者ですが御免なさい。
勿論!、光秀の単独犯行説であります。
その前に、光秀、秀吉、家康のかすかな暗黙了解説を建てておきたい訳です。このお三方とも非常に信長を怖れており、信長の信頼を損なわぬよう注意して仕えていた。一つ間違えれば何時殺されるかわからない圧力下で仕えていた。信長の家臣団は全員です。当然、何時だれが謀反を起こしても可笑しくないと思っている。事実荒木村重などは逆らっております。つまり、お三方とも機会があれば誰が謀反でも可笑しくなく、それは自分かもしれないと。謀反で信長が死んだら、後は三人の競争になる。光秀の兵士の証言で信長ではなくて家康を討ちに行く筈だったというのがあります。信長の密命で家康討伐が出たのなら、光秀は感じます。天下統一の後、家康同様「走狗」で自分も秀吉も殺される。奴を討つのは今しかない。
黒幕はわかりません
ただ、光秀はないとしたらこのような作戦だったのではないか?というのはあります
まず、偽の明智家紋を持った兵士が本能寺を包囲する
偽の早馬が、光秀に「敵が本能寺を包囲している」と伝える
光秀、信長を助けに行こうと向かう
着いたら乱戦状態、織田方は攻撃してくるので応戦するしかない
こうして光秀は客観的には裏切り者になってしまった、とか
とはいえ本能寺の変の後、11日間は光秀も生きていて、弁明していたような資料の情報は、聞かないです
無理のある説かとは思いますが
これをベースに話を進めるなら、真犯人は結果的に光秀を倒した秀吉か、中国大返しをあっさり承認した毛利が怪しいと思います
かりに上記の作戦により、光秀は冤罪で弁明していたとしたら、書類の捏造や噂話の吹聴をすれば事実を書き換えることも当時ならできそうです
足利義昭将軍だと思いますね。
やはり信長に追放されて将軍をやめないといけなくなったのがとても屈辱的だったのではないかと思いますね。
あと光秀はもともと義昭につかえていたので、おそらくまだ義昭とつながっていて義昭が命令したと考えます。
八切史観が一番納得できますね。
実行犯は公家の日記にあるとおり、斎藤利三です。利三の娘お福が後の春日野局で、天海との子の家光を家康の一声で三代将軍にしています。家康は利三に義理があるわけで、それが信長に命を狙われていた証拠です。ちなみに天海は光秀の子の光慶らしく、だから家「光」なんです。史料が残っていないのは闇に葬られたため徳川政権のトップシークレットだから。
信長が家康の命を狙っていたのは、家康が松平元康を殺し成り代わって、元康の子信康を殺すのに、信長のせいにしたからです。信康の信は信長からもらったもので、正室も信長の娘五徳です。
信長は一番信頼の厚い光秀に、家康殺しを命じたが、光秀が、愛宕山に金を借りに行っていたときに、利三が単独で兵を動かし、兵には家康を殺しにいくといって、本能寺で信長を殺した。愛宕山から帰ってきた光秀は慌てて事後収集を図るが、予想をしていた秀吉にいち早く情報の裏をとられ、京都に集結しようと、光秀と利三を誘い出して、山崎で両者を騙し討ちにしてしまう。
つまり黒幕は家康で、実行犯は利三で、当時利三は光秀の与力だったので、光秀が信長の正室の奇蝶の命令で、利三が実行したものと思い責任をとったのでしょう。信長は家督を信忠に譲ったために、奇蝶が妬み、また利三の妹が四国の長曾我部に嫁ぎ、長曾我部と縁の深い吉田神道は当時の銀による金融を司っていたのを、信長は銀資本から外国の金資本に転換しようとしていたために、経済体制の返還と、また信長は朝廷から農奴を解放しようとしていたので、敵が多かったのも、利三の犯行を実現させた要因です。
締切後に回答されました伊賀や毛利の忍者たち 織田信忠
何故なら毛利攻めの援軍ほどの大軍の中で
本能寺を攻めた兵がそんなに大量にいた訳がない。秀吉に攻められていた毛利氏勢が伊賀の忍者と協力して織田を殺した。そしてその忍者が主上の毛利氏に手紙を送った。するとたまたま秀吉の手に渡ってしまい慌てて毛利勢の馬や兵士を連れて帰還した。結果秀吉に本能寺の変を知らせようとした明智光秀の軍勢とぶつかって勘違いした秀吉が明智を討った。ところが真犯人は明智ではなく忍者だったため部が悪くなり、明智光秀が本能寺の変を起こしたとするシナリオを書いた。
さらに援軍は明智が率いていたのではなく息子の織田信忠が率いていて、黒幕だったのではないかと思います。親である信長を倒して天下人になろうとしていた。なのに何故か配下の明智光秀が兵を自分に向けてきたため自分もやられた。と思います。
もしかすると本当は本能寺の変など無かったのではないかと思っております。
黒いカラスも99人が白だといえば、残りの一人がいくら黒を主張したとしても白ということになります。
信長が京都で突然死んでしまった事実を、光秀の裏切りという風に作文しようと思えばできてしまうと思います。
例えば信長病死の報せを受けて心配して駆けつけた光秀の事を、謀反人に仕立て上げ、何万もの人が騒げばインフラが整っていない時代ですので尾ひれも背びれも付いて信長ゴロシの明智光秀が出来上がってしまいます。
光秀が各地に出したと言われる書状などは捏造できますし、向かってくる相手を迎撃する光秀の姿勢は相手から見れば光秀がやはり謀反人だという印象を濃くしていきます。
さらに最後が土民の槍にかかるなんて終わり方が不思議で仕方ないです。
朝廷と秀吉と家康が組んで信長の病死という事実を、光秀の謀反ということにして、作文してしまえば都合よくその後を運べます。
秀吉の中国大返しも、黒幕だからできたという説がありますが、もし本当にただの忠義心で走り続けたとしたら、とんでもない言われようです。
しかし、事前に何か知っていたとも考えられますし。
様々な説があるのは【事実】と【時代考証】を同列で考えてはいけないという教訓のような気がします。
【事実】
信長の急死(病死)
【時代考証】
本能寺の変(光秀の謀反)
とお風呂に入りながら考えたりするのが楽しいです!笑
締切後に回答されました黒幕というのは存在しなくて、明智光秀の突発的な犯行。
「誰が得したか」は結果論からの推測で面白いんだけど、物的証拠からしても周辺に根回ししてあったようには思えない。状況からいえば、「好機」とおもえる状態で、そう思ってしまう心理状態になる「なにか」が積み重ねられてきたんじゃないかと思います。
単独犯行説を推します。黒幕が居るならば本能寺の変後速やかに支援を得て実権を握るための算段を整えていたはずですが、史実では光秀公に味方する者は少なく手間取っている内に中国大返しで舞い戻った秀吉公に討たれています。逆に秀吉公や家康公を黒幕と想定した場合、自分が在京中に謀反を起こさせて直後に確実に自らの手で討ち取れるよう計らうでしょう。
動機は憶測しか出来ませんが、政策や国家像など根本的に信長公と合わない部分があったのかも知れません。美濃の名族土岐氏の一族で濃姫の親戚でもある自分が尾張の陪臣に過ぎなかった織田氏に良い様に扱われているのが長年刺のように刺さっていた、とか…。信長公に仕え続けることが出来ない何らかの事情があり、さりとて織田氏と渡り合える大名も思い当たらず、進退窮まって自ら討つことを選択したのでは。後の行動を見ると自らが天下に君臨するために積極的に討ったようには見えません。
『直情径行武断一辺倒の信長とは本質的に相容れぬものがあり遂に逆臣の汚名を着て非業の最後を遂ぐ 郷党の英雄の末路痛恨の極みという外なし』(明智城址記より)
精神的に追い詰められて、焦燥感からとか、憎悪がたまりにたまってとか、実のところ合理的な説明は無理なのかもしれません。現代だったら、何らかの病気だと診断されるような精神状態だったのかもしれないとも思います。
何の面白味もありませんが陰謀論、黒幕説には否定的です。明智光秀の個人的行動だと思います。そもそも人間が、他人の行動を自分の思い通りにいくよう動かすことなど、とうてい無理だと思ってます。
秀吉(山田孝之)…!
私は光秀が実行犯なのは同意ですが、そそのかしたり裏で糸を引いていたのは
羽柴秀吉ではないかと思います。
「本能寺の変」の直後に中国大返しといって素早く帰ってきたといいますが、
10日で200㎞もの距離をそう簡単に移動できるでしょうか?
推測ですが、主君・信長の後継者になるつもりで邪魔な光秀をうまくそそのかし、信長を討たせた。その後で山崎の戦いにて光秀を消した。世間的には「信長を殺した光秀を征伐した」と大義名分が立ちますね。
一般企業でいうと、社長(信長)のイスを狙っている役員(秀吉)が別の少し
気の弱い役員(光秀)にクーデターを仕掛けさせ、社長とその役員諸共失脚させる手口に似ています。
そして、業務提携している会社社長(家康)が光秀役員の元部下から「あなたも
うちの社長と昵懇だったので責任を取って下さい」と狙われて実家(三河)に逃亡。秀吉役員はその間に晴れて新社長の座に君臨、といった感じですね。(長文スミマセン)
2020年の大河ドラマの主人公が、明智光秀に決まりました。6月2日が本能寺の変。13日が、光秀の命日で、タイムリーなお題だと思います。
最近は、書状等が出て、四国説や、室町幕府再興説が説得力を持っているとされます。
自分は、秀吉と朝廷の黒幕説を取りたいと思います。朝廷にすれば、信長は脅威だった筈です。信長は朝廷から打診された官位を受けず、自分が直接国王の様なトップに立ち、自分を中心とした強力な封建的な社会を築こうとしたのではないかと思います。
秀吉にすれば、朝廷から信長討てと言われて、チャンスと捉えたかもしれない。朝廷に恩を売れば、後々役立つと考えたかもしれない。秀吉が光秀を唆したのでは?と考えます。
自分が何故、秀吉が怪しいと思ったか?と言えば、手際が良すぎると言うところでした。光秀が毛利に送った書状が間違って秀吉のところに届いた件。中国大返しの超人的な移動の件。これらは、予め光秀が謀反を起こす事を知っていたからではないか?と考察したのです。
また、光秀自身も、信長に領国を奪われ、普段は冷静沈着で頭脳明晰であるのに、動揺し、付け入られたところもあったのではなかったでしょうか?良く言われる怨恨説も一理有ると思います。こういう事が複合的に重なり、本能寺の変が引き起こされた様な気がします。
結果として、秀吉は関白となり、全国を統一し、朝廷は存続します。
う~ん・・公家の近衛前久ではないか?と思えてきてしまいました。BSTBSの「諸説あり!」という番組で、小牧・長久手の戦いの特集があり、こう説明されていました。本能寺の変の時に、明智の兵が近衛家の屋敷から信長の長男の信忠が宿泊している寺に鉄砲を打ち掛けたことで、当時から近衛家は黒幕として疑われていたそうです。明智光秀とも懇意の間柄でした。
秀吉はそれらの事を一切不問にする代わりに、近衛家の養子となり関白の位に就く事が出来ました。。(関白の位に就けるのは近衛家を含め五家のみだったそうです)関白になれば自由に官位を授けられるので、なかなか臣従しない徳川家康に異例の三ランクか四ランクアップの官位を与えて、ようやく臣下に加える事が出来たそうです。
少し横道にそれましたが、動機は信長が将軍やましてや天皇までも排除する様な考え方に危機感を持ち、公家社会にも及ぶのではないかと思ったからではないでしょうか?
徳川家康黒幕説が怪しいとにらんでいます。
結果的にですが、武田家滅亡後、織田家の領地となっていた信濃、甲斐を本能寺の変後にどさくさにまぎれて奪って一番得しているんですよね。本能寺の変の前は駿河、遠江の2国で、本能寺の変後は4か国ですよ!織田家と同盟国ならばまず織田家の領地は奪わないでしょ。完全に織田家を裏切って下克上ですよね。
信長は家康を生かしておくと厄介になると予見していたのだと思います。
なので、明知光秀に家康を討たせようとした。信長と信忠の直轄軍は、武田征伐で使ってしまい充電期間で使えない為、光秀の軍を使おうと考えた。
光秀と家康は結託し、家康暗殺の策を逆手に信長を討つ策を打ち立てた。
秀吉は、実は裏で光秀と家康が組んでいることの情報を得ていた。だから、中国大返しと毛利家和睦の準備を事前に進めたのだと思います。
家康は信長に代わって天下をとろうとしたんでしょうね。その前に秀吉に天下を先に奪われていますが。最終的には豊臣家を滅ぼして、天下を手中にしてますので、家康の目標は達成されたことになるのですが、家康にとって、信濃、甲斐の2か国を手中に収めることが、天下取りの大きな第一歩だったように思います。
本能寺の変は色んな武将の思惑が絡み、起きた事件なのではないのかなぁと思います。過激な妄想になってますが。
明智光秀の単独犯行だと考えています。当時、信長は少数の供回りと本能寺に滞在中であり、重臣たちは全国各地に遠征中。そんな中で、光秀自身は怪しまれずに軍勢を動かせる立場にいました。光秀は「今なら信長を討てる」事に気が付いてしまったのではないでしょうか?有職故実に通じる教養人であった光秀は、旧体制を革新的に破壊していく信長のやり方に耐えられず、信長を排除しなければ、天下は治まらないと思い込んだのでは?人間誰しも不合理で不可解な行動を取ることがあります。天才・信長の誤算は、人間の不合理で不可解な心の闇を見抜くことが出来なかったことです。
真犯人はわかりません、というか「ケネディ暗殺」のように明確に『信長を暗殺しろ』と命令した特定の人物、組織は存在せず『あらゆる意味で変化を極端に恐れるものたち』がいろいろな方面から情報を光秀の耳に入れ、結果実行させたというのが真相ではないかと思います。
秀吉とジョンソン、朝廷と軍事産業を支えた政府、マフィアと足利義昭、いずれも変化を求めていない人だったり組織だったりします。
『将来に対する不安、危機』(光秀本人の恨みや将来という短絡的なものではなく、朝廷、明智一族、その他) が犯行動機になっているのではないかと推察します。
変化には良い変化と悪い変化とがあると思いますが、信長の変化はどちらだったのでしょう。
本能寺の変は、明智光秀が織田信長を討ち取った事件であることは疑問の余地はありません。「真犯人」という題は要するに、黒幕ないし共犯者がいたのか、いたとすれば誰かということですよね。いろいろと妄想(失礼!)を巡らすのは楽しいことですが、私は単独犯だと考えます。最近読んだ呉座勇一著「陰謀の日本中世史」(角川新書)第6章「本能寺の変に黒幕はいたか」に書いてあるとおり、光秀の才覚だと思います。
これまで見聞きした中では、暗殺の陰謀は光秀+家康のタッグによるという明智憲三郎氏の説が一番説得力があり、なるほどと思いました。
きわめて要約すれば、信長が、今後危険になる家康を暗殺しようと光秀と相談するが、光秀がそれを利用したというものです(誤解があるといけないので、興味のある方は明智氏の書籍を読んでください)。
去年の大河(直虎)もこの説寄りでしたね。
朝廷説や義昭説などは、ありそうですが、説得力のある意見を聞いたことがありません(寡聞にして私が知らないだけかもですが)。
興味があるのは秀吉+勘兵衛ペアです。一番不自然です。
秀吉又は勘兵衛は光秀の実行計画を知っていたとみるべきではないでしょうか?。でなければタイミング良すぎる停戦とか、毛利方に事件の一報が届かないとか、中国大返しとか、織田信孝軍の解散(秀吉軍が主力となる)とか、奇跡が続きすぎです。
光秀をそそのかした? 諜報により知った? など理由はともかく、予め知って裏で動いていた気がします。そして大返しの準備をしておき、小早川を巻き込んで停戦し、丹羽長秀と結託して秀吉軍を主力とし、さらに細川や筒井なども根回ししていたような気もするのですが、どうでしょう?
歴史学者ではないので、単なる妄想ですが
明智光秀
大河ドラマに期待
やっぱり明智光秀の単独説だと思います。怨恨はともかく、将来のこと、自分が手に入れた地位(これは信長ありきのことですが)のことを考えたりして、何より信長を殺すところまでなら、今ならいけるんじゃね?と思ってしまった。電話もメールもなく、移動にも時間がかかる時代に誰かと連携をとるとか、難しい気がするし、事前に露見すると思いますから、光秀もやはり信長に取って変わろうと思ってしまったとしてもおかしくないと思います。
有名な説で変わらず、徳川の逆襲だと思います❗
明智光秀本人でしょうねえ。
生真面目で頭脳明晰な光秀ですから誰かに唆されたということはないのではないでしょうか。
光秀が自分で思い悩み、計画し、実行したのだと思います。
犯行動機は一つじゃないでしょうね。たった一つの動機で天下がひっくり返ることをしようとするはずがないですから。
信長の所業に対する怒りや天下を手中に収めたいという野望など様々な思惑が重なって本能寺の変が起こったのだと思います。
ひでよし!
個人的意見ですが欲望を満たすためには何でもしたのでは。そして権力を握ってしまえば都合の悪いことはすべて消し去ってしまうこともできたのでは。
ぼくは生まれながらの大阪人ですがどうも成り金人たらしのひでよしは好きになれません。弟さんの小一郎さんは好きです。
秀吉ファンの皆さまゴメンナサイ。
黒幕は豊臣秀吉でしょうかね、やはりあの時代は隙あらば邪魔者は消したいだろうし?実際信長が死んで天下取っちゃいましたもんね
実行犯は光秀ですが、秀吉の謀略に引っかかってしまったのではと思います。
秀吉が中国大返しを行い光秀を討ったことは、当時の情報伝達からいっても驚異的な速さです、これは事前に光秀の行動を予測していたとしか思えません。光秀側に秀吉の手の物がいたんだと思います。
また信長亡き後、三法師を擁立し自ら後見人になった行為はスピーディーかつ謀略の匂いが拭えません。
しかし光秀だって戦国の武将です、目の前に天下があれば手に入れたいと思うのはごく自然のことと思います。
司馬遼太郎先生は秀吉側にかなり好意的ですね。
本能寺の変に関しては家康。
ただ、すべて秀吉の手の内で組まれた出来レースと考え、黒幕は秀吉と思います。
信長は家康を屠るために上方に呼んでいた。
(理由は諸説あると思いますが、結局はお互いの思想が合わなくなってきたが理由でしょう)
信長はその事を内密に光秀・秀吉に話していた。
本来は秀吉がその職を受け持つはずだったが毛利攻めで動けない状況だったので光秀
が行った。
光秀は家康に恩を受けていたので断る理由がなかった・・。
光秀にとっての誤算は山崎の戦で秀吉に負けたこと。
秀吉が裏切ると思っていなかった。秀吉からすればすべてを知っているので光秀討伐は殿を屠った敵を討ったという大義名分を得て、諸大名に正義を謳える仕組みを自ら演出した。
結果、秀吉はすべて計画通りに事が進み安堵した、という仮説です。
※小牧・長久手の戦で家康に負けたのも秀吉が家康に一応の礼をしたという意味で
・・というシナリオです。
朝廷
色々な本を見ましたが、長宗我部元親が有力だと思います。
明智光秀の単独犯行でしょう。
今川氏真
真犯人・黒幕がいるなら、
結果として一番得をした人物、
というのが定石なのでしょう。
でも、誰かが真犯人だったとしても
あまり光秀側に利益があったとも思えません。
使い捨ての駒ですし。
どうやってそそのかしたのでしょうか?
あまり歴史に詳しくないので、
よくわかりませんが、
やっぱり、単独でやったのでは?
でなければ、団長が真犯人です。
ネタにしてますし。
ストーリーを書いていたのは朝廷だろうと思います。
中心は近衛前久でしょうか。
共犯というか事前に朝廷からそれとなく協力を打診されていたのは、
茶屋四郎次郎
黒田官兵衛
安国寺恵瓊
千宗易
といった次を狙っていた軍師たちではないでしょうか。
黒田かんべーだと思っています。備中高松城攻めから中国大返しの流れは偶然に歴史が動いたというよりそこらじゅうに種をまき不信不安をあおり育てて刈り取ったという気がしてなりません 殿下のためにというよりは種まきしてた一つに引っかかって花が咲いてしまったのが光秀でノリノリで殿下の駒を進めたのがかんべーさんというイメージ
かんべーさんファンの人すみませんエヘヘ
真犯人は明智、豊臣、徳川などの複数犯で、
秀吉の抜け駆け天下取り説だと思います。
理由は、諸説ある中で一番辻褄が合うと思ったからです。
その頃の人物など勉強不足なので明智光秀しか思い浮かびません。
昨今様々な説が聞かれますが、信長が家康を亡きものにするために光秀と計画をたて、それを逆手にとられ本能寺の変が起きたというのが私は好きですね。
なんか人間の泥臭さみたいなものが感じられ、現代の感覚では理解できないことが平然と起きている戦国らしさがある説だと思います。
まぁそうであったら凄いなぁくらいのものですが・・
シンプルに単独犯行だと思います。柴田・羽柴・滝川等の諸将がそれぞれの持ち場で奮闘しており、下克上を起こすには最高の状態だったと思います。信長を快く思わない勢力を糾合すれば十分天下に号令できると踏んでいたのではないでしょうか?ここまで信長にスキを与えた光秀はやはり、信長からある程度の信頼を集めていたのでしょう。だから京の隣国丹波や近江坂本を与えられていたのでしょうから。実際、松永久秀や荒木村重も謀反を起こしていますが、京から離れているので信長にとっては対応可能な謀反。信長からするとまさか光秀が?という気持ちだったと推測します。
明智光秀の単独犯行だと考えています
朝廷説・将軍説・秀吉説・家康説 等色々言われていますが
愛宕神社でのおみくじの話、組下大名へすら事前工作をしていないこと
誰か黒幕なり協力者がいたとしたらもう少し違う展開になっていたのでは
ないでしょうか。
精神的に追い詰められた光秀が突発的に引き起こした事変であったと思います
ちなみに・・・
朝廷説の場合、生真面目な光秀なら事前に討伐の宣旨を受けてから動きそう。
武力を持たない朝廷が万が一信長の暗殺に失敗した場合のリスクを考えないはずがないというのが一番大きな理由です。
将軍説の場合、この時期の光秀が将軍義昭に従う理由がない。どちらかというと
事変の後で大名義分の為に名前を借りる可能性はあったとしても、今更義昭の為に信長を討つ理由にはならないと思います。
秀吉説の場合、本能寺の変の後最も得(出世)をしたから。単独でも毛利を下せたはずなのに態々信長に出馬を願った(結果本能寺へ宿泊につながる)
事前準備なしに大返し出来たこと自体怪しい。
等々おそらく一番容疑が濃いのではないでしょうか?
個人的には此れも無いと考えます。結果的には関白にまでなる秀吉ですが
この時点では織田家方面軍司令官でありそれこそ無理をする必要がありません。
信長の死により織田家(羽柴家含む)が崩壊してしまう可能性も決して低くはありませんでした。劉邦に仕えた韓信の心境 ”狡兎死して走狗烹らる” を警戒した
とも考えられなくはないですが、信長四男 於次丸 を養子に迎えた事(羽柴家の所領は秀吉の死後 於次丸 が継承する)などを考えると可能性が高いとは思えません。
家康説の場合、光秀=天海 の場合だけなのではないでしょうか?
信長の婿 前場利長・丹羽長重 や近習上がりの 池田輝政 などは当然光秀とも面識位はあったはず、判らないわけありません。家康の手前公式の場では触れなくても何かしらの記録には残っているはずです。
もし家康が光秀の協力者なら、堺から命からがら逃げだすことなく光秀に保護を求めれば良いだけです。家康の脱出時に秀吉の大返しの情報が入っていたとは考えにくく(摂津衆のその後の動きを見る限り)伊賀越えよりは光秀庇護下の方が安心だと思うでしょう。
その他 イエズス会説・毛利説・長宗我部説 ・・・ 論外 あり得ません
長々と書きましたが如何でしょうか
個人的には羽柴秀吉だと思います。なぜなら織田信長が討たれて一番得をしたのは羽柴秀吉だからです。それに事前に信長の死を知らないと、中国大返しみたいなことはできないんじゃないんですかね。
いくらなんでもそれはは無理だろう。今のところはそう思っています。
本能寺の変の真犯人がもし羽柴秀吉ならば明智光秀も事前に相談をしていたのでしょうね。羽柴秀吉から光秀に信長を殺せといわれていたのでしょうか。(個人の創造です。)
ですがそれが事実だとしてもそれを受け入れる光秀もすごいですよね。
7歳の息子が、「あれは絶対に利休やって!光秀のお師匠さんやし、自分では手を汚さずに光秀をそっちに誘導したんやと思う。ワビとかサビとか、信長あんまり好かんやん?やから、自分の意のままになる光秀に天下を取らせようとしたに違いない!!って送っといて」と言われた母です。親バカなので、ふむふむそうか〜となりました。
秀吉説も捨てがたいのですが、長曽我部説も捨てがたい…。
長曽我部との婚姻による縁戚関係からの、四国を守るための謀反とか、ロマンが詰まっている気がします。
歴史は勝者が刻むもの、最後に残ったのは誰なのか…。
やはり徳川家康という線は捨てがたい気がします。
伊賀越えの一節も、勝者が刻む歴史なのではないかと…。
中国攻めに合っていた小早川隆景と攻めていた黒田官兵衛