攻城団ブログ

日本の歴史をまるごと楽しむためのブログ。ここでしか読めない記事ばかりです。

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お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

松 の検索結果:

一泊二日で大河ドラマ「麒麟がくる」ゆかりの地をめぐってきました

…境内に「家康腰かけの」があります。 今回は若狭熊川宿まちづくり特別委員会の宮本会長のほか、ボランティアガイドの宮本さん、下嶋さんに案内していただきました。お城メインで紹介しましたが、熊川宿の町並みは素敵ですし、この地で使われている若狭瓦は江戸時代は船の重しにも使われていたそうで、北前船経由で北海道の小樽などにも伝わっています。こうしたエピソードも案内してもらえるので、訪問される際はガイドの予約をすることをオススメします(90分1000円)。 昼食は「桔梗御膳」 ふたたび舞鶴…

一命にかけて兵を救った清水宗治

…ったのである。備中高城の城主、清水宗治のケースがまさにそうであった。 この人はもともと高城主だった石川氏の家臣だったのが、主家の内紛に乗じる形で自らがその地位を奪ってしまい、やがて毛利支配下に収まったという経歴の持ち主であった。備中と備前の国境を守る重要な位置にあった高城をそのまま任せられた。この城は国境線上に存在するほかの城とあわせて「境目七城」と呼ばれたが、多くの城が毛利の命によって新しい城主と入れ替えられたのに宗治はそのままだったというところに、毛利家中における彼…

【サイン本プレゼントあり】「太田資正と戦国武州大乱〜実像と戦国史跡〜」のご紹介

…される北条氏との武州山での攻防は、どのようなものだったのか。 家臣団の面々とは。 そして、その領国はどこにどう展開されていたのか。 『太田資正と戦国武州大乱』では、三人の執筆者が手分けをして、系譜/事績/家臣/領国の4つの視点から太田資正の実像に迫ります。 太田資正にご関心のある方はもちろん、道灌以後の系譜の謎や、小が大に挑んだ戦国合戦の構想と顛末、そして戦国時代の武蔵国にご興味のある皆様に、お読みいただきたいと考えております。 プレゼントの応募受付は終了しました。ご応募い…

永久秀、自ら爆死す!?

…の戦国時代といえど、永久秀ほど波乱万丈の生を生きた男はほとんどいない。そして何よりも、その死に様のすさまじさが彼の名を後世にまで残している。 久秀がまずその名を高めたのは、三好長慶の側近としてだった。 戦国時代の近畿は、足利将軍の権威が失墜した後、管領職を継承していた細川氏が実権を掌握しつつ、しかし内部争いが続いていた。そんな中、細川氏の重臣である長慶が下剋上で頭角を現し、近畿から四国にかけて広く勢力を伸ばしたのだ。ところが、晩年の長慶はその力を失墜させ、失意のうちにこの世…

【2019/2020】お正月はお城へ初詣しよう(全国のお城の年末年始の営業について)

…けっこういますよね。江城のように早朝から天守が開放されているお城もありますし、姫路城のように元日は入城料が無料になるところもあります。 ゆずあんこ | 初日の出と御三階櫓[白河小峰城] また武田神社になっている躑躅ヶ崎館をはじめ、城址が神社になっているお城もたくさんありますし、天守がなくても戦国武将とゆかりのある城址や神社にお参りするのもいいと思います。 ぼくはここ数年、毎年お正月には地元の神社への初詣とはべつにお城にも城詣(しろもうで)に出かけるようにしていますが、お城に…

剣豪将軍・足利義輝、最後の大奮戦

…長慶の死とその腹心・永久秀の躍進によって再び追い詰められ、ついに殺害されてしまった。 歴代の征夷大将軍は多くが(大小の動乱はありつつも)平和な時代を生きたこともあって、その死因は寿命や病死になっている。それでも暗殺によって倒れた将軍もいるのだが、その中でも義輝の死はドラマチックだ。なぜなら、彼は剣客として大立ち回りを演じた末に死んだ、といわれているからだ。 そもそも、義輝は将軍という高貴な身分であるにもかかわらず相当な剣の達者であったらしい。鹿島新当流の開祖で「剣聖」と謳わ…

【プレゼントあり】「ねこねこ日本史名所にGo!」シリーズのご紹介

…存天守は丸岡城や備中山城など7城がラインナップされています。また大阪城や名古屋城といった大城郭だけでなく、大垣城や越前大野城といった地方のお城や今年オープンしたばかりの尼崎城までありますね。 丸岡城 尼崎城 和歌山城 大阪城 丸亀城 宇和島城 高知城 江城 備中山城 福知山城 清須城(清州城) 名古屋城 山城 赤穂城 岐阜城 大垣城 長浜城 墨俣城 越前大野城 販売サイトを表示する プレゼントのご案内 この「ねこねこ日本史名所にGo!」シリーズの中から、今回は北田社長…

御城印ブームについてインタビューに答えました

…してもっとも古いのは本城だといわれています。ただし管理事務所の方も正確にいつから販売開始したかはわからないそうで、おそらく平成3年頃からではないかとおっしゃっていました。 (なお本城では御城印とは呼ばす「登閣記念証」として販売されています) 御朱印ブームがいつからはじまったのかはわかりませんが、2014年に「御朱印ガール」という言葉でメディアが取り上げているので、おおよそその頃からと推定され、またこの御朱印ブームはその前のパワースポットのブームの流れを受けているとも思いま…

人取橋の戦い、主君を救った片倉小十郎&鬼庭左月

…て政宗は畠山氏の二本城を攻撃したものの、攻めあぐねていたところに連合軍が接近してきたため、こちらに対処せざるを得なくなった。両軍が激突した主戦場になったのが人取橋付近であるため、こう呼ばれたのである。 この戦いにおいて、政宗は圧倒的に不利な状態にあった。3万余の連合軍に対して、伊達軍は7000に過ぎなかったからだ。たちまち劣勢に追い込まれる政宗だったが、2人の家臣の勇敢な振る舞いが彼を救った。 1人目は鬼庭左月(良直)である。一時撤退する伊達軍の殿に立ったこの老将は、鎧もつ…

たかまる。さんの丸岡城シンポジウム「ここまでわかった!お天守の新しい知見と謎」参加レポート

…の存在意義は大きい-浦先生の報告 最後に浦先生が文献をもとに調査された結果が報告されました。 丸岡城の歴史的な背景を解明することが一部できたように感じましたが、なぜ丸岡の土地を選んだのかや誰が丸岡城に入ったのかなどが明らかにされたと思います。 具体的には、天正9年4月までに柴田勝豊が豊原城から丸岡城へ移っていたことが明らかとなりました。 パネルディスカッション 最後にパネルディスカッションです。 丸岡城の役割について 背景としては、次の2点があります。 越前国内で起こった…

【戦国合戦こぼれ話】忍城攻防戦、甲斐姫の奮戦

…えていた時代、備中高城を落とすのに使った水攻めを試みた。ちょうど梅雨時でもあったし、この作戦は成功するかと思いきや、痛い目を見たのは三成の方であった。堤防を築いて川をせき止めたはいいものの、その堤防が決壊して兵数百人が溺死。しかし忍城は周囲で一番高い場所にあったために被害を受けることはなかったのである。 面子を潰された秀吉勢は、その兵力をもってして今度は強引に城に突撃することに。集められた武将の中には真田幸村や大谷吉継など有名武将もいた。忍城に残された兵力は800人程度。秀…

紅葉の名所、大徳寺高桐院にいってきました

…に書院につづく茶室「向軒」は1628年(寛永5年)に忠興自ら建立したもので、忠興好みの二帖台目で、三帖の水屋がつき、茶室には珍しい黒壁を使うなど、壁や天井にも趣向が凝らされていて有名です。この茶室はもともと北野大茶会で使われたとも伝わるそうですが、高桐院でいただいたパンフレットにはその記載がないので(たんに「三斎公の手で建立」とだけある)真偽は不明です。 蒲落ち天井(がまおちてんじょう)や網代天井(あじろてんじょう)など、屋根がすべてちがうのが洒落てますよね。 茶室につづく…

【戦国合戦こぼれ話】羽柴秀吉の中国大返し

…すべく毛利方の備中高城を攻めていた。講和の交渉も始めていた3日夕方ごろ、信長自害の情報が秀吉の耳に入る。秀吉はこのことを毛利方に知られないようにし、講和締結を急いだ。毛利方としても、秀吉に増援がくることを知っていたからこれ以上戦うのは難しい状況だと判断し、講和に応じた。 6日午後過ぎ、毛利方が撤退していくのを確認した秀吉軍も高城を出発した。ここから京都と摂津の境にある山崎まで、怒涛の行進劇が始まる。6日は20数キロを移動、翌日7日は朝から出発し、約55キロ先の姫路へ。姫路…

【戦国合戦こぼれ話】関ヶ原、島津義弘の前進撤退

…立ちはだかった武将は平忠吉と井伊直政。忠吉は島津勢の武将の首を一つとったが、島津勢の銃による攻撃で直政とともに怪我を負った。この銃が無茶な退却に大きく役立ち、島津勢を救っている。徳川勢もここで島津勢を追うのを断念している。 とはいえこの戦いにより島津勢はかなりの数の武士が戦死した。はじめ数百人いた武士たちが、最終的には百人弱にまで減ってしまったのである。散った者たちの中には副将の豊久もおり、義久にとっては大きな痛手であっただろう。 この後も島津勢には辛い道のりだった。詳細は…

大政奉還についての誤解〜教科書でよく見る絵のように慶喜が諸侯に発表したわけじゃない?〜

…野探幽が描いた巨大なの絵が床の間だけでなく両脇にも描かれていますが、この絵には桜が描いてあります。これは探幽の弟、狩野尚信が描いた「桜花雉子図」です。違い棚が直角に備え付けられていることや、一の間と二の間の幅がズレていることなども黒書院だと特定できるポイントです。 上の図面のとおり、黒書院は対面で使用する一の間と二の間をあわせても56畳で大広間の92畳と比べるとひとまわり小さいので、これだけの人数を収容することはむずかしいと思います。また親しい人との対面所として使われていた…

【戦国合戦こぼれ話】小手森城の撫で切りが示した若武者の決意

…から間もなく、小浜塩城主・大内定綱が政宗への臣従を申し出たが、時をおかず伊達氏のライバルである蘆名氏方へ「転向」するという事件が起きた。基本的に戦国大名は絶対君主ではなく、半ば独立勢力である中小国人たちをいかに自分の支配下に留めて置くかということに腐心しなければならない。 定綱の短期間での裏切りは、他の国人たちに伊達氏を軽視させる原因になりうるものであり、無視できない問題であった。かくして翌1585年(天正13年)、政宗は大内氏を攻めた。その過程で小浜塩城の支城である小手…

【戦国合戦こぼれ話】「山崎の戦い」で速度と手回しを利した秀吉

…吉は中国地方の備中高城で毛利氏と対峙していた。しかしその一報を知るや(光秀が毛利氏に向けてはなった使者を捉えたのだとされる)速やかに和議をまとめると、驚くべき速度で中央へ取って返した。この時、秀吉率いる2万の軍勢はわずか7日間で近畿まで戻って見せている。うち1日は播磨姫路城で休息しているのだが、その際に大量の兵糧と金銀が兵たちに分配されたという。「仇討ち」という大義名分に気前のよさも手伝って、羽柴軍の意気は軒昂だったはずだ。さらに秀吉は近畿にいた諸武将(その中には信長の三男…

【戦国合戦こぼれ話】安祥城の戦い――戦後交渉こそが重要だった

…な力を持っていたのは平氏だったが、絶頂期を築いた平清康が家臣によって殺害されて後はすっかり衰退し、今川氏の支配下に入っていた。つまり、織田vs平(のバックにいる今川)という状況になっていて、たびたび両者が激突していたのだ。 そんな中、義元の軍師として、また外交僧としても名高い太原崇孚(雪斎)の率いる軍勢が安祥城を攻撃した。ここは元々平氏の城であったが、織田氏に奪われて三河攻略の拠点とされていた。今川方が三河を安定支配するためにはどうしてもこの城を奪い返しておかなければ…

【戦国合戦こぼれ話】人取橋の戦い―家臣の献身と敵側の事情が政宗を救う

…この時期、政宗は二本城の畠山義継に対して厳しい圧迫を加えていたが、輝宗の介入によって穏便に傘下へ加えることになった。ところが、その義継が輝宗を人質にして逃走し、あわてて政宗が救出の兵を送ったものの輝宗を死なせてしまう、という事件が起きた。 激怒した政宗は二本城を包囲して激しい攻撃を加えたが、守りが堅くてなかなか攻め落とせない。そうこうしているうちに、北関東の有力者である佐竹氏や、伊達氏にとって南奥州をめぐるライバルである蘆名氏らをはじめとする周辺諸勢力による総勢3万の連合…

御朱印集めの魅力について、ぽにょまる姫さんに聞いてみました

…なんです。 あとは、陰神社(東京世田谷)の御朱印帳にいただいた象山神社(長野県)の御朱印(弟子の陰の御朱印帳に師匠の佐久間象山を祀る神社の御朱印をいただいたので、象山神社の方が「これは良いめぐりあわせですね」とうれしそうにおっしゃっていました)や、福井の剣神社(織田家発祥の地)でいただいた剣神社の御朱印と北ノ庄城の柴田神社と三姉妹神社でいただいた御朱印(期せずして織田家つながりの御朱印が並びました。剣神社に行った翌日はツアー参加でした。柴田神社の次に連れて行かれたのが新田…

御朱印集めの魅力について、花しょうぶさんに聞いてみました

…ださい 花しょうぶ 島の瑞巌寺でいただいた御朱印です。 訪れたのは東日本大震災の後、復興に向けて進んでいる時期。 瑞巌寺が一番好きな戦国武将「伊達政宗公ゆかりのお寺」ということもありますが、特に心惹かれるのが、この力強い「聖観音」の文字。 東日本大震災の爪痕が大きく深く残っているこの町が復興に向けて、前へ進もうとしている姿と重なり、感動しました。 わずかにクリームがかった紙に書かれているのも、もう一つのお気に入りの理由です。 御朱印・御朱印集めの魅力はどんなところにあると思…

【戦国合戦こぼれ話】土木工事で勝つ(2)高城の水攻め

…た羽柴秀吉は、備中高城の攻略に取り掛かっていた。世に言う「高の水攻め」である。 「赤之城水責之図」(東京都立中央図書館蔵) 中国の覇者である毛利氏は、備前と備中の境目に7つの城を築いていた。これを「境目七城」という。その中心となったのが高城であり、ここを攻め落とさなければ毛利領の奥深くに入ることはかなわなかった。そこで秀吉はまず、高城以外の6城を攻め落とし、孤立させた上でいよいよ高城攻略に取り掛かった。 高城は平城だが盆地状の湖沼地帯に立っており、三方向は沼に囲…

【戦国合戦こぼれ話】関ヶ原の戦い――始まる前に終わっていた!?

…ろを突けるはずだった尾山の小早川秀秋や南宮山の毛利秀元といった軍勢は動かない。それでも西軍側の奮戦によって戦況は一進一退で推移したが、ついに小早川の軍勢が動くや、事態は一挙に終局へ向けて動き出した。 小早川軍は本来味方であるはずの西軍に向けて殺到し、これによって西軍は総崩れと相成ったのである。毛利軍は最後まで動かなかった。この両軍は戦いが始まる前から東軍側と内通し、三成を裏切っていたのである。 これこそ冒頭で紹介した「根回し」に他ならない。東軍が不利な状況にあえて突っ込んだ…

御城印集めの魅力について、shoさんに聞いてみました

…の12月に静岡県の浜市へ旅行する際、イソイソとネットで調べものをしていた時です。 私の仲間でもあります、後輩ちゃんから 「浜城にこんな物がありますよ(^^)」 との連絡がありまして。 そこで、浜城にて『御城印』なるものが存在することを知りました。 私はもともと、相方氏・後輩ちゃん・後輩ちゃんの弟君たちをはじめとしたチームで日本や世界の面白い物探しをしております。 以前から、寺社の御朱印や風景印・旅の思い出帳等も興味を持っておりました。 ほかの全国各地のお城でも販売されて…

京都文化博物館の特別展「百花繚乱 ニッポン×ビジュツ展」にいってきました

…本美術 まずは海北友の子である海北友雪の「源平合戦図屏風」です。 左隻に屋島の合戦を、右隻に鵯越の逆落としのシーンを描いたベタな構成ですが、これがベタだと学べたのは、先日の徳川美術館で「合戦図」について教わったからです。 歌川国芳が描いた「四条畷手の戦い」です。 刀剣は「備前國長船住近景」「長曽祢興里入道乕徹」「和泉守藤原兼定作」が展示されていました。 このコーナーの最大の見所は、島津斉彬の甲冑でしょう。 なぜ幕末にこんな家風な甲冑をと思いますが、鎌倉時代の部品も残っている…

【戦国を彩る名軍師たち】東海一の弓取りを育て、支えた軍師・太原雪斎

…ら今川へ渡されたのが平氏の竹千代、のちの徳川家康で、もともと今川氏の支配下にあった平氏はいよいよ今川に逆らえなくなった、というわけである。崇孚はただ兵を動かすだけでなく、このように政治とも絡めることができる非常に賢明な人物であった。 ところが、崇孚死後の今川氏は急速に衰退を遂げていく。義元は桶狭間の戦いで信長に討ち取られ、その後を継いだ氏真はかつて支配下にあった家康によって攻め滅ぼされてしまう。崇孚があまりにも優秀で、その穴を埋める人材がいなかったせいだろうか。 初出:『…

【受験にご利益あり?】全国にある「落ちない城」一覧

…足利尊氏に味方する赤則村(円心)が、九州に落ちる尊氏を追う新田義貞の軍勢約6万をわずか2千の兵で約50日にわたって足止めしたことで知られます。不敗・不落かというとそんなことはなくて1507年(永正4年)には一族内の争いで落城したりもしています。2016年(平成28年)から「合格祈願絵馬」を上郡町観光案内所や赤公民館、上郡町役場産業振興課で無料配布しています。 落ちない城 白旗城 – 上郡町観光協会 kojodan.jp 千早城 南北朝時代の城というともうひとつ、楠木正成が…

【戦国を彩る名軍師たち】実は外交・交渉で活躍した蜂須賀正勝

…切り崩すとともに味方を強化する役目を果たしたのであり、宇喜多直家や安宅直康といった武将たちが織田氏に従ったのも、彼が仲介役を担った結果であったという。さらに毛利攻めの最終局面である高城攻めの際も、黒田官兵衛とともに外交の最前面に立ち、毛利方の外交官である安国寺恵瓊との交渉を行なっている。その活躍があったればこそ秀吉の中国侵攻は成功したのであり、またその後の飛躍があったのだ――というのは、必ずしも大げさな話ではないはずだ。 初出:『歴史人』ウェブサイト(2013年9月17日)

【戦国武将の御朱印集め】山中鹿之介のお墓がある本満寺の御朱印をいただいてきました(京都・日蓮宗)

…なった鹿之助は、備中山城に在陣する毛利輝元のもとへ移送される途中で謀殺されました。 (安来市立歴史資料館蔵) 岡山県高梁市で殺された山中鹿之介のお墓がなぜ京都にあるのかというと、鹿之助の長男とされる山中幸元(鴻池直文)が江戸時代以降の豪商・鴻池財閥の始祖となったからで、どうやらその子孫である鴻池家の誰かが、本満寺に墓所を建てたという話です。真偽は不明ですが、鴻池財閥と山中鹿之助がつながっていたのは知りませんでした。 「天文法華の乱」と現在地への移転時期について 寺伝によれば…

【戦国を彩る名軍師たち】本多正信と徳川家康の「水魚」関係

…の本多一族は古くから平氏(徳川氏)に仕えており、同族に徳川四天王のひとりである本多忠勝がいる。彼と同じく、正信も若い頃から家康に仕えていたのだが――その徳川家臣としての経歴は突如として途絶える。三河一向一揆の武力反乱が起きた際、多くの徳川家臣が主君への忠誠と信仰心の間で揺れた末に後者を取って反乱に参加したのだが、正信もそのひとりだったのだ。一揆が鎮圧された後、正信はすぐには帰参せず、各地を放浪している。一向一揆の重要拠点である加賀にいたというから、よほど信仰心が強かったのだ…

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