室町幕府13代目の足利義輝は悲劇の将軍として知られる。
その背景として、室町幕府と足利将軍の権威は「応仁の乱」と「明応の政変」以後に失墜していたことがある。
義輝はこれを復活させるために京の外で奔走し、長らく戦ってきた三好長慶と和解してついに京に戻って幕府を再興したものの、長慶の死とその腹心・松永久秀の躍進によって再び追い詰められ、ついに殺害されてしまった。
歴代の征夷大将軍は多くが(大小の動乱はありつつも)平和な時代を生きたこともあって、その死因は寿命や病死になっている。
それでも暗殺によって倒れた将軍もいるのだが、その中でも義輝の死はドラマチックだ。
なぜなら、彼は剣客として大立ち回りを演じた末に死んだ、といわれているからだ。
そもそも、義輝は将軍という高貴な身分であるにもかかわらず相当な剣の達者であったらしい。
鹿島新当流の開祖で「剣聖」と謳われた塚原卜伝に学んだという話も伝わっている。
仮にも将軍が戦場で自ら剣を振るう機会があったとは思えないが(そもそも当時の武士の主武器は槍と弓であったが)、身体を鍛え、また護身の技にするために学んだのだろうか。
そして、その剣技が真価を発揮したのが、彼の死の間際であった。
深夜、久秀の軍勢に御所を包囲された義輝は、すぐさま鎧を身に着け、しかも十数本の刀を持ち出したとされる。
それらの刀を一気に使うのではなく、1本以外はすべて床に突き刺した。
そして、襲い掛かってくる敵兵を次々と斬り捨てたかと思うと、やおら手の刀を捨て、次の一本を抜いては再び別の兵を斬ったのである。
日本刀は私たちが思うほど頑丈なものではなく、甲冑や人間の肉・骨を斬れば刃こぼれが起こり、また人の脂によって切れ味が悪くなってしまうものだ。
そこで義輝はあらかじめスペアの刀を用意し、とっかえひっかえで振るった、というわけである。
しかし、人間の気力にも体力にも限界がある。
ついには足を斬られ、障子をかぶせられて、ハリネズミのように串刺しにされて死んだ、という。
こうして奮闘むなしく討ち死にした義輝ではあるが、これほどまでに壮絶な死に様を見せた武将は戦国時代といえどそうはおらず、長く語り継がれることとなったのである。