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一命にかけて兵を救った清水宗治

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人間の命はすべて平等というのが現代的な価値観だが、少なくとも戦国時代日本では必ずしもそうではなかった。
たった1人の命が数千や数万の兵士の命よりも重く、またその命が失われることによって数多くの命が助かるという状態が確かにあったのである。
備中高松城の城主、清水宗治のケースがまさにそうであった。

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この人はもともと高松城主だった石川氏の家臣だったのが、主家の内紛に乗じる形で自らがその地位を奪ってしまい、やがて毛利支配下に収まったという経歴の持ち主であった。
備中と備前の国境を守る重要な位置にあった高松城をそのまま任せられた。
この城は国境線上に存在するほかの城とあわせて「境目七城」と呼ばれたが、多くの城が毛利の命によって新しい城主と入れ替えられたのに宗治はそのままだったというところに、毛利家中における彼の評価を推測することができるだろう。

そこにやってきたのが、織田家の中国方面軍司令官・羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)である。
鳥取城と三木城を兵糧攻めによって落とした秀吉は、次の目標を宗治の守る高松城とした。
とはいえ知略で知られる秀吉のこと、いきなり無理攻めをしたりはしない。
まずは宗治を裏切らせようとしたし、これを断られると「境目七城」のほかの城を落として高松城を孤立させてしまったのである。

それでも頑として揺るがない高松城を攻め落とすために秀吉が敢行した作戦こそ、世に名高い「高松の水攻め」だ。
近くの川をせき止めて水を引き込み、もともと低湿地にあった高松城を水浸しにしてしまったのである。
これにはさすがの宗治も参ってしまう。
水に浸かった場内の食料は腐り、兵士たちは疫病で弱った。
毛利氏の援軍もやってきたが、周辺が湖のようになってしまったのでどうにも手出しができない。

兵糧攻め状態が続く一方、織田軍と毛利軍の間で和平交渉が進んでいた。
その結果、条件として備中と伯耆の二か国について領地を分けることと、高松城の責任者である宗治が切腹することで話がついたのだ。
宗治は舟で(そのくらい湖同然だったのだ!)城から秀吉の陣近くまでこぎ寄せ、そこで腹を切った。
彼の死と引き換えに和平は成り、地獄絵図の状態に追い込まれていた高松城の兵たちは命を助けられたのである。

初出:『歴史人』ウェブサイト(2012年3月23日)

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