ひさしぶりに榎本先生と動画を録りました。
今回のテーマは「江戸時代の三大改革」です。ところで学生時代、テストのために丸暗記させられた方も多いと思いますが、いま解けますか?
ちなみに正解は以下のとおりです。
享保の改革→徳川吉宗
寛政の改革→松平定信
天保の改革→水野忠邦
ただ歴史について勉強していると、新井白石や田沼意次がやったことは改革ではなかったのかが気になりました。
そもそもそれぞれの改革は、どういう経緯ではじまり(つまり改革が必要なほど政治経済が危機的状況だったということ?)、どんなことをやって、その結果はどうだったのかまでは覚えていないので、この機会に教えていただいたというわけです。
まずそれぞれの改革(的なことを含む)がおこなわれた時期や期間をまとめました。その時点の将軍も入れてあります。
これを見ると将軍自ら陣頭指揮をとったのは有名な徳川吉宗と、あとは短期間ですが幕末の徳川慶喜くらいで、あとは老中などが実行責任者となっています。
あとこうして見ると江戸時代のほとんどは改革をおこなっていたこともよくわかりますね。番組中にもふれてますが、改革が行なわれていない(ように見える)期間のうち、徳川家斉の治世――寛政の改革後――は大御所政治がおこなわれました。じっさい大御所となっていたのは最後の数年だけですが、なぜか家斉=大御所政治と言われますね。
徳川家重の時代も空白がありますが、これは享保の改革の遺産があったことと、徐々にネガティブな影響が出始めていて、その対策として家重は田沼意次を登用しているので、田沼時代との移行期にあたります。
ぼくは年表での可視化が好きなので、ついついこういうのを作っちゃうのですが、飢饉や大火などのタイミングも含め、江戸時代の官僚たちは常に危機的状況に対処し続けていたのだなということがわかりました。
なお江戸幕府の歴代将軍については、榎本先生が『将軍の日本史』を出版された際の出版記念ライブ用に作ったスライドもあったので参考まで。
それでは以下、榎本先生が用意してくださった台本をもとにテキストで整理します。
江戸時代に行なわれた改革
藤田覚『近世の三大改革』(山川出版社)によれば「江戸時代の改革って結局何なの?」という質問に明確に答えています。
- そもそも江戸時代に「なんとかの改革」という言い方はなかった
- しかし、天保の改革の時に、主導者である水野忠邦が将軍の上意という形で「享保と寛政の改革を真似て改革をする」的な宣言がされているので、そのような江戸幕府の史観を引き継ぐ形で、享保と寛政、そしてそれに基づく天保の改革を特別視する三大改革という考え方が出てきたのではないのか
- 善政と悪政が交代・繰り返しで現れるという考え方があって、悪政(田沼時代や大御所時代など)に挟まれているから善政=改革というふうにも考えられたらしい
- 具体的にいつ頃「三大改革」で固まったかはわからないが、昭和19年(1944年)の本庄栄治郎の著作『近世日本の三大改革』が到達点であろうと考えられる
ぼくは収録までに読めませんでしたが、この本です。
個別の改革について見ていきます。
正徳の治
徳川家宣・家継と儒学者・新井白石による改革。
なぜ行われたのか?
- これに先立つ徳川綱吉時代の政策が急進的で評判が悪かった
- 明暦の大火からの復興にお金がかかったこと、金銀鉱山が枯れて収入が減ったこと、さらに神社仏閣の建立が無駄遣いとみなされたなど財政が困窮していた
改革の具体的な政策
- 生類憐れみの令の停止(服忌令など、一部、継承されたものも)
- 物価が上がりすぎていたため、その対策として、以前の質を取り戻した正徳小判を発行する
- 朝鮮通信使への対応を簡素化(接待の贅沢さを減らす)
なぜ頓挫したのか
- 家宣・家継がどちらも比較的短命で亡くなり、新将軍・吉宗が新しい改革を始めたため
- 政策の一部は継承されたものの、朝鮮通信使への対応や、貨幣の質などは元通りに
小判の話は日本銀行金融研究所の貨幣博物館・常設展示図録にわかりやすい案内がありました。
享保の改革
8代将軍・徳川吉宗のもとで行われた改革。
なぜ行われたのか?
- 16世紀中頃以降、新田開発や農作物の改良による社会的な生産力向上が続いていたのが、この頃になると止まり始めたため
- 米からの年貢をベースにする武士や諸藩・幕府の経済・財政的な危機が放っておけないレベルになっていたため
- 庶民がお金を持ち始めて消費社会が拡大し、商人たちが莫大な富を得ていったから(身分秩序の崩壊は幕藩体制につながる)
- 幕府を統治するのは軍人階級である武士だが、最後の合戦(島原の戦い)からも50年以上経過し、武士の美徳(武芸訓練に励むことなど)を失っていたことも問題視された
武士の美徳云々の部分は、新井白石等による武家諸法度(宝永令)と、吉宗によって綱吉時代の天和令(てんなれい)に差し戻された武家諸法度(享保令)を見比べると、思想の違いが如実です。
第一条は「学問武芸に励み忠孝を尽し、礼儀を正しくする事」(宝永令)と「文武忠孝を励し可正礼儀事」(天和令・享保令)程度でさほど変わらないものの、第三条の「人馬・武器は財力に応じ用意して置く事」(天和令・享保令)が宝永令では消えた一方で、吉宗によって復活させられたところに、軍事重視路線への回帰が見られます。
改革が始まった流れ
7代将軍・家継が跡継ぎなく亡くなった後、御三家のひとつで紀州藩主の徳川吉宗が将軍として迎えられた。彼は先行して自分の藩で改革を進めており、その時に用いたスタッフを連れて江戸城へ入り、幕府でも故郷と同じように改革を始めた。
改革の具体的な政策
- 人材登用
- 旗本からも大岡忠相(ただすけ。いわゆる大岡越前)など優れた人材をピックアップした
- 足高の制
- 幕府の制度では各役職に「役高」が決まっていて、ある程度の家禄を持っていないと高い役職にはつけられないが、一代限りの臨時役職手当を付与することで家禄を上げずに出世を可能にした
- 上げ米
- 本来幕藩体制にはなかった、大名家から幕府への税金。1万石につき100石を一時的に定めた
- 年貢制度を検見法(けみほう)から定免法(じょうめんほう)へ変更(年貢率を変動性からある程度一定させるものに変えることで、安定して年貢が取れるようにした)
- 公事方御定書の制定(民事・刑事訴訟についての基本法典)
- 武芸や実学の奨励
- キリスト教警戒で禁止されていた洋書も、中国語訳のものに限定してOKになった
- 町火消や目安箱の設置
- 小石川養生所の開所
吉宗は「米将軍」と言われるように、当時の最大の問題だった「物価は上がるが米価は下がる」状態を改善するために対策に奔走した(酒の製造を制限したり、米の公定価格を作ったり)が上手くいかなかったようです。
最終的に、大岡越前が進めた通貨改鋳で銀の品位(貨幣における金銀の含有の割合のこと)を下げたのが功を奏し、一旦物価は安定したとか。
改革の評価
榎本先生によれば、財政問題は一旦解決したので成功したと言っていいとのことでした。
ただしこの時の成功体験が寛政の改革や天保の改革では不利に働いた(倹約などの場当たり的対応ではどうしようもなかった)とも。
田沼時代
側用人・田沼意次による改革。
なぜ行われたのか?
- 商品経済のさらなる発展に対応するため
- 享保の改革での年貢増加が頭打ちとなり、財政的危機が復活
改革の具体的な政策
- 商品経済に注目した重商主義
- 享保の改革で開始された株仲間(同業者組合)を広く公認して運上・冥加(税)をとる
- 貨幣経済を促進する新しい貨幣(南鐐弐朱銀(なんりょうにしゅぎん))を作る
- 印旛沼の干拓や蝦夷地(北海道)の開拓
なぜ頓挫したのか
- 経済の発展を受けて汚職や賄賂が横行した
- 印旛沼の開拓が洪水で失敗・冷害による天明の飢饉・浅間山の噴火による冷害(田沼の悪政が原因と当時の人々は考えた)
寛政の改革
老中・松平定信による改革。定信の祖父・吉宗を見習っておこなわれた。
なぜ行われたのか?
- 田沼時代を受けて改革の必要性が叫ばれた
- 物価の高騰、旗本・御家人の困窮、農村から江戸への流入
改革の具体的な政策
- 厳しい質素倹約&武芸や学問の奨励(ただし学問は儒学の一種である朱子学のみ。これが「寛政異学の禁」)
- 棄捐令(きえんれい。武士の没落対策として実質的な旗本・御家人の借金帳消し)
- 旧里帰農令(きゅうりきのうれい。人返しの法。旅費などを与えることで農村に人を返す)
- 人足寄場(にんそくよせば)を作り無宿人の職業訓練を実施(この政策を担当したのが鬼平のモデル、長谷川平蔵)
- 飢饉対策に資金や物資を備蓄
なぜ頓挫したのか?
- 厳しい改革への庶民の反発
- 同僚たちとの対立
- 尊号一件(そんごういっけん)
最後の尊号一件とは、時の天皇(光格天皇)が、天皇を経験していない自分の父(典仁親王)を太上天皇にしたいと考えた件と、時の将軍(徳川家斉)が、将軍を経験していない自分の父(一橋治済)を大御所にしたいと考えた件が絡んで揉めた事件で、最終的に定信が両者ともに退けたが、定信も失脚させられることになりました。
定信は何も悪くないというか、ルールに沿って正しい判断をしただけなのに杓子定規で融通が効かないと嫌われたのでしょうね。
番組でも話しましたが、こういう不器用さは少しシンパシーを感じるので嫌いになれないです。
なお定信失脚後も「寛政の遺老」と呼ばれる人々により、文化年間の間はある程度その政策が踏襲されたそうです。
天保の改革
老中首座・水野忠邦による改革。「内憂外患」が深刻化する中で対応が迫られた。
なぜ行われたのか?
- 内憂
- 徳川家斉時代の後半(化政時代)に経済・文化が爛熟し、武士や商人たちの綱紀が緩んで賄賂・不正が横行したため
- 「農村の荒廃」問題及び人口の流入問題、また天災による飢饉が物価を跳ね上げたせいもあって、都市でも農村でも各種の一揆がおきた(代表例が大塩平八郎の乱)
- 外患
- 諸外国の接近や開国要求
- アヘン戦争で中国が敗北
改革の具体的な政策
- 「復古」がスローガンになり、享保の改革・寛政の改革を手本にした緊縮・倹約
- 「蛮社の獄」(蘭学者グループの弾圧)
- 株仲間を解散
- 強制的な物価の値下げ、諸大名が買い占めによって物の値段を上げるのも禁止
- 農村から江戸への流入対策で人返しの法
- 異国船打払令を撤廃
- 上知令(江戸・大坂近辺の土地を持つ武士たちから領地を取り上げ、幕府の経済力を高め、防衛しやすくする)
なぜ頓挫したのか?
- 上知令への武士の反発、年貢増長への農民の反発
いろいろやったもののほとんど効果がなく、むしろ流通が混乱したり、不景気が加速して不満が溜まりました。
榎本先生によれば、水野忠邦は幕政に関わるためにわざわざ豊かな唐津藩から自ら望んで転封になるような人物だったので、「改革したい」という欲が先に立ったのではないかとのことでした(長崎警護役の関係で唐津藩のままだと老中になれないため)。
この強すぎる使命感は同時代の人にとっては迷惑でしかないけれど、水野忠邦も憎めない人物ですよね。
安政の改革
老中首座・阿部正弘による改革。
なぜ行われたのか?
- 天保の改革失敗後も、社会問題の深刻さは変わらず
- 海外列強の接近はさらに深刻な問題へ(前年にペリー来航)
改革の具体的な政策
- 講武所(旗本の子息への軍事訓練を行う場所)、海軍伝習所(外国人に西洋式の航海術を学び、船乗りを育成する場所)、蕃書調所(西洋の知識を取り入れるための場所。最初は「洋学所」)の設置
- 雄藩藩主たちの重用
- 水戸藩主・徳川斉昭(とくがわ なりあき)、福井藩主・松平慶永(まつだいら よしなが。春嶽のこと)、薩摩藩主・島津斉彬(しまづ なりあきら)、佐賀藩主・鍋島直正(なべしま なおまさ)など
なぜ頓挫したのか?
- 阿部が急死したため
榎本先生はみんなに気を使いすぎて早逝してしまったのではないかとおしゃってました。
阿部正弘は幕政に御三家や親藩、外様藩主らを参加させるなどかなり大胆な政策を打ち出しており、その一方でバランスを取るべく、改革の最中に自ら老中首座の立場を名門の堀田正睦(ほった まさよし)に譲ってもいます。
もし彼が長生きしていれば幕府と諸藩の関係は史実ほどこじれることはなく、ソフトランディングできていたかもしれませんね。
文久の改革(前半)
安藤信正(あんどう のぶまさ)と久世広周(くぜ ひろちか)による改革(および彼らの失脚後の方針転換)。
なぜ行われたのか?
- 桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されたため
安政の改革の後、堀田正睦を経て、井伊直弼の政権において開国および尊王攘夷運動への激しい弾圧(安政の大獄)が行われたものの、その直弼が暗殺された結果、安藤と久世は後始末をするとともに、開国後の混乱に対応しなければならなかった。
改革の具体的な政策
- 物価高騰への対応(金の海外への流出対策)
- 尊王攘夷運動の高まりによっておきた事件(外国人の暗殺や領事館襲撃など)への対応
- 和宮親子(かずのみやちかこ)内親王を時の将軍家茂と結婚させての公武合体(失墜していた幕府の権威回復を狙う)
なぜ頓挫したのか
- 安藤が襲撃(坂下門外の変)されて「背中に傷を受けたのは武士として失格」という非難を受けて失脚
- あわせて久世も失脚
この期に及んで「武士として」というくだらない理由で罷免されるとか信じられないのですが、榎本先生によれば、こんな理由(背中の傷)で政権がひっくり返されてしまうくらい幕府が弱体化していたのだろうとのことでした。
文久の改革(後半)
将軍後見職・一橋慶喜と政事総裁職・松平慶永(春嶽)による改革。
なぜ行われたのか?
- 薩摩藩主の父・島津久光と公家・大原重徳が江戸へ上って圧力をかけたため
改革の具体的な政策
- 安政の大獄の被害者の名誉回復
- 朝廷に圧力をかけてきた幕閣たちの処罰
- 幕府から朝廷への干渉を抑制または廃止(年頭の勅使下向や、摂政関白のような要職について幕府の許可を取ることなど)
- 参勤交代の緩和(2年に1度から3年に1度になり、江戸にいる時間も短くなる)
- 軍政改革(海軍総裁・陸軍総裁・海軍奉行・陸軍奉行・軍艦奉行・騎兵奉行などの新しい役職を作って、新しい軍事力を用意しようと図る)
- 京都守護職の設置(混乱する京都の治安維持のため)
なぜ頓挫したのか
- 主導者間の意見対立から、空中分解
慶応の改革
最後の将軍・徳川慶喜による改革。ヨーロッパを目標に、中央集権制度を目指した。
なぜ行われたのか?
- 幕府と長州ら尊王攘夷派の対立が激しくなる中、大坂で対長州・対朝廷の最前線に立っていた家茂が病死し、その補佐役であった慶喜が将軍になったため
- フランス公使レオン・ロッシュによる助言が大きかった
改革の具体的な政策
- 軍政改革(幕府陸海軍の編成を目指した)
- ヨーロッパ式の内閣制度を目指して首相や各種総裁を設置
なぜ頓挫したのか
- 大政奉還を宣言し、江戸幕府そのものが消滅したため
まとめ
3つどころかめちゃくちゃたくさんの「改革」があったことに驚きましたが、新井白石、田沼意次、阿部正弘など登場人物については知っている人ばかりでした。
久世広周のことは知りませんでしたが、旗本の家に生まれながら関宿藩主の養子となり家督を継ぐと、井伊直弼に対して老中で唯一反対したため罷免されるなど信念のある人だったことがわかります。こういう魅力的な人はきっとまだまだいるはずなので、もっと江戸時代の人物についても知りたいと思いました。
スコットランドの哲学者・経済学者アダム・スミスが『国富論』を書いたのが1776年のこと、つまりヨーロッパで経済学が生まれたのが江戸中期〜後期にあたるわけですが、鎖国をしていたのでそうした最先端の学問が導入されることはなく、金貨の品質を下げたり、米をひたすら量産すれば事態は好転するはずといった、需要と供給のバランスすら理解していない政策を繰り返していました。
その結果、状況がどんどん悪くなることは現代人ならわかるのですが、手探りで眼前の困難な課題に取り組んでいた彼らを笑うことはできません。
将軍だった吉宗や親族である松平定信はともかく、むしろ頼まれてもいないのに自ら進んで再建をするために転封を願い出た水野忠邦のような人がいて、またそうした意欲ある者に委ねてみようとした幕府にも懐の深さを感じました(あるいはわらにもすがる思いだったのかもしれませんが)。
この記事を書くためにWikipediaをチェックしましたが、すでに「安政の改革」や「文久の改革」などのページはあり、もう三大改革というのは過去の歴史用語になりつつあるのかもしれませんね。
今回も2時間近く話してしまいましたが、感想コメントなどお待ちしています!