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【戦国時代の境界大名】諏訪氏――武田に滅ぼされた名族がその出自故に蘇る!

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諏訪大社の神官家

諏訪氏は古代より続く長い歴史を持つ名門武家だ。しかし、例えば東北に多くいたような「鎌倉以来」の名門武家とは少々性質が違う。
信濃国(長野県)の諏訪湖、その南と北にある上社(本宮=諏訪市。前宮=茅野市)と下社(春宮・秋宮とも下諏訪町)を合わせていう諏訪大社のうち、上社の大祝(おおほうり)を務めてきた一族(大祝家は神氏とも称した)である。
諏訪大社のことは、日本三大奇祭の一つとして数えられる御柱祭で知っている方も多いだろう。なお、大祝というのは諏訪大社や鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)などで用いられる神職の呼び名である。

その出自は諏訪大社の祭神でもある建御名方神の末裔であるとするものから、神武天皇の皇子・神八井耳命の子孫で信濃国造の金刺氏の一族であるとするもの(なお、諏訪下社の大祝は金刺氏である)、さらには桓武天皇の子孫、清和源氏の末裔など、諸説がある。
そうした神官としての顔を持つ一方で諏訪氏は武家でもあり、とくに鎌倉時代においては幕府の実権を掌握した北条得宗家に御内人(みうちびと)として仕え、なかでもその筆頭として大きな存在感を持った。また、諏訪大社の神事や建物の造営は周辺の武家に税として課せられ、このことがむしろ「諏訪氏を中心とした集団」としての意識を彼らに植え付けることにもなった。

室町時代には神官としての大祝家と、武家としての惣領家の間に分裂があり、大祝家側による乗っ取り計画もあった。しかし最終的には惣領家のもとで統一を迎え、戦国時代に入っていく。

隣国・武田氏との対立と和睦

先述した上社諏訪氏内部の対立とは別に、上社の諏訪氏と下社の金刺氏の間にも多年に渡る争いがあった。しかしこれは戦国時代初期の1518年(永正15年)、上社の諏訪頼満(1480―1539)が下社の金刺昌春を倒したことによって終わる。諏訪一帯は諏訪氏の手によって統一されたわけだ。
しかし、諏訪氏の周辺は決して安定はしていなかった。甲斐(山梨県)の名門・武田氏の内紛を収めた信虎が、虎視眈々と信濃進出を狙っていたからだ。東に北条、南に今川とそれぞれ大大名がいる武田にとって、甲斐の外へ出ようと思えば、諏訪や村上、小笠原といった名族はいても国内すべてを統一するような大大名がいない信濃以外の選択肢はなかったのである。

かくして頼満と信虎はたびたび争うことになった。1528年(享禄元年)には信虎が信濃との国境に兵をすすめてきたので、頼満が迎え撃っている。この時、朝の戦いでは負けてしまったが、勝って驕り高ぶる武田軍の隙を突く形で、晩の戦いでは諏訪軍が勝利した。また、享禄4年に今度は甲斐の反乱分子に頼られる形で頼満が攻め込み、信虎の軍勢と戦って勝利している。

ところが、この対立関係は1535年(天文4年)には一時解消される。頼満と信虎が和睦したからだ。これは、信虎が諏訪を経由しての信濃進出を諦め、新たに諏訪の北東に位置する佐久から進出することにしたためだと考えられている。そうとなれば、諏訪とはとりあえずでも手を結んだほうが信濃侵攻がしやすくなる。諏訪氏としても、さしあたって武田氏と戦わなくて良くなるし、その過程で自らの勢力を広げる機会もあるだろう、というわけだ。その証拠として、天文9年には信虎の軍勢が佐久に攻め込んでいるのだが、頼満の死後に後を継いだ孫の頼重(1516―42)が加わり、新たな領地を得ている。さらにこの年のうちに頼重と信虎の娘の欄々が婚姻を結んでおり、諏訪・武田の接近が続いた。

諏訪氏としては武田の後ろ盾を得たという心強さもあってか、筑摩へ進出して小笠原氏と戦い、天文8年にこれと和睦した後は、佐久や小県への進出を狙っている。信虎の信濃攻めにも、諏訪氏の思惑があったのかもしれない。

内と外からの挟撃

このような関係性があったにもかかわらず、1542年(天文11年)、突如として武田の軍勢が諏訪に襲いかかった。頼重はその報を聞いても4日の間なにもしなかった、という。あまりにも予想外のことで呆然としてしまったのだろうか。

どうして武田はそれまでの方針を変更したのか。背景にはいくつかの事情がある。
ひとつには、武田氏の当主交代がある。1年前、信虎の嫡男である晴信(のちの信玄)が、父の信虎を追放してしまったのだ。これによって直接的に諏訪・武田関係が変わったわけではないが、信玄にとって諏訪との同盟はあくまで父が決めたことであり、己は己で新しく動く、という思いがあったのではないか。

そしてもうひとつ、頼重の足元が大いに揺らいでいた、ということもあった。
度重なる合戦と天災(風雨・洪水)によって武家も農民も負担に喘いだ。その影響か、天文7年には諏訪上社の神殿が鳴動した、という話が伝わっている。もちろんこれは迷信のたぐいだが、諏訪大社のお膝元の信心深い人々がそのような話を伝えるくらいに、不安と不満が満ちていたのだ。

さらに、諏訪氏の支配下には不満分子が多かった。諏訪上社の神官、諏訪下社の金刺氏にも不満を持つものがおり、そして諏訪一族ながら惣領家に対して下克上の志を隠さぬ高遠氏がいたのである。
高遠氏が惣領家から別れたのは南北朝時代のことで、しかも家祖信員の父・頼継が兄、惣領家を継いだ信継が弟という間柄から、「自分たちこそが正統の諏訪氏である」という思いが強かった。この時の当主、高遠頼継(?―1552)にもその意識があり、なんとかして惣領家を倒そうとしていたようだ。そこに武田氏が近づいていったのである。

結果、武田と高遠の軍勢に挟まれた諏訪は、長年の戦いで戦力に乏しく、本拠地の上原城(茅野市)から逃げ出して、どうにか桑原城(諏訪市)に立て籠るしかなかった。
そこに武田方から「城を明け渡すなら和睦し、兵を引き上げる」という申し出があったので、頼重はこれを受け入れる気になった。武田に臣従することになろうとも、その兵を借りて高遠を倒すことができれば、と考えたのだ。

これは一見して都合のいい考えに見えるが、境界大名的な価値観に立てばそうおかしくもない。中小勢力は大大名の傘の下に立ち、合戦などで兵を出す代わりに守ってもらう、というのは当たり前のことだったからだ。
ところが、武田信玄はそのような常識を超えて恐ろしい男だった。降参してきた頼重を捕らえ、切腹させてしまったのである。こうして名族・諏訪氏は滅び、その領地は東を武田が、西を高遠が、それぞれ分け合うことになった。

武田による諏訪支配の完成

武田信玄は恐ろしい男だが、高速頼継もまたそれに劣らぬ男だった。彼はもともと諏訪氏の旧領を武田氏と分け合う気などなかったし、自らが諏訪氏の当主となるつもりだった(武田方に諏訪全土支配の野心があった、とする向きもある)。
そこで、信玄が諏訪に残していった大祝の諏訪頼高(1528―42。頼重の弟)を甲斐へ送ってしまい、また諏訪氏を継ぐ予定だった虎王(頼重の子で、信玄の甥に当たる。この年生まれたばかり)に代わって、頼継自らが諏訪氏の当主となろうとしたのである。もちろんこんなことが彼一人でできるはずもなく、諏訪大社の神官と手を結んでのことだった。
そして諏訪氏が滅んでから2カ月後、頼継は武田氏が諏訪に残していた軍勢を攻め、下社も占領して武田に対する敵意を露わにした。

こうなれば信玄も黙ってはいない。早速兵を挙げたのだが、この時に虎王を擁したあたりが信玄の狡猾なところである。諏訪氏の正統を擁立することで、旧諏訪家臣団を味方につけ、また頼継に正当性がないことを示したわけだ。
戦いは1542年(天文11年)、以前に両者が領地を分けた宮川で行われ、武田方の勝利に終わった。頼継はこの戦いで散々に打ち破られながらも戦意を失わず、その後もたびたび信玄と戦っている。だが、ついにかなわず、天文17年に武田への臣従を誓った。こうして諏訪は武田の手に落ちたのである。

諏訪四郎勝頼の立場

さて、武田氏が支配する諏訪において、諏訪氏はどう扱われていたのか。
本来惣領家を継承するべき虎王のその後は、じつははっきりとしていない。「千代宮」と名乗ったという記録はあるが(『守矢頼真書留(もりやよりざねかきとめ)』)、信頼のできる史料で追いかけられるのはそこまでだ。生きていれば武田氏がなんらかの形で利用しただろうから、夭折したのだと考えられている。

ただ、諏訪頼重の血はほかにも残っていた。
娘の諏訪御料人が生きていて、信玄のもとへ送られてその側室となったのである。やがて1546年(天文15年)、彼女が一人の男の子を産んだ(『一本武田系図』『甲陽軍鑑』)。四郎勝頼――のちに武田氏を継ぐ子である。

しかし、この時点で信玄に、跡目を勝頼に継がせる意図があったとは思えない。嫡男の武田義信がいたからだ。むしろ、母方の血筋である諏訪氏を継がせるつもりだったのは明らかで、実際に1562年(永禄5年)に彼を高速城代に付け、「諏訪勝頼」を名乗らせている。
この時に諏訪氏本来の居城である上原城ではなく、高遠城に入ったのは、勝頼が継いだのが諏訪惣領家ではなく高速家であったからだと考えられている。その証拠として、高野山成慶院所蔵の『甲斐国過去帳』において、勝頼はあくまで高速氏の系統であると記されているのだ。

このような扱いになったのは、武田氏支配下の諏訪において大きな発言力を持っていたのが頼重の叔父である諏訪満隣で、上社大祝の職にも彼の子の頼忠(1536―1605)がつくなどしていたことが原因であったらしい。信玄は「満隣親子が頑張っているところへ強引に割り込んでも益がない」と考えたのではないか、というわけだ。
こうして武田氏支配下の諏訪(高遠)氏の主として生涯を過ごすかと思われた勝頼だが、事態は意外な方に動く。高速城代となった同じ年、兄の義信が父に逆らい、幽閉されて後継者の座から滑り落ちたのだ。この時、信玄には跡を継ぐに相応しい男子が勝頼しかいなかった。結果、諏訪勝頼は武田勝頼となり、武田氏という重荷を背負うことになっていくわけだ。

ちなみに、勝頼は1571年(元亀2年)まで高遠城で過ごしたため、その家臣団には高遠・諏訪関係者が多い。このことは、のちに武田氏の家督を継承した後、譜代の家臣団と勝頼の仲が険悪になったことにも関わりがあると考えられている。
本来あとを継ぐべきではなかった男が、他所から腹心を連れて当主となれば、それは古株にとっては面白くないのも当然である。

その後の諏訪氏

さて、話を諏訪の地に戻そう。1582年(天正10年)、武田勝頼は織田・徳川連合軍との戦いの末、追いつめられて死んだ。甲斐・信濃を占領した織田政権も、同年に起きた「本能寺の変」での信長の横死によって空中分解する。
この時、一気に活気づいたのが諏訪周辺の中小勢力である。彼らは「今こそ諏訪氏を我らの主に迎えるべき」と一致団結すると、高島古城(茶臼山城。諏訪市)にいた織田家中の弓削重蔵を城より追い出し、諏訪上社大祝の頼忠を迎え入れた。甲府には甲斐・信濃の支配を任されていた河尻秀隆もいたのだが、これも諏訪衆が合戦で打ち破ってしまう。
こうして、名門武家・諏訪氏が諏訪の地に復活することとなったのだ。

しかし、安心はしていられない。信長の死と織田政権の崩壊により、甲斐・信濃は上杉・北条・徳川らによる草刈り場になったからだ。
どの勢力に味方するかを急いで決めなければいけない。頼忠は真っ先に動いた北条氏に従い、その旗色を鮮明にした。
もちろん、ほかの勢力も動いている。徳川家康は「徳川四天王」の一人酒井忠次を信濃へ送り込み、頼忠に徳川支配下に入るよう説得させようとした。

ここからが少々妙なのだが、頼忠は「自分はすでに北条氏に従っている」と主張したのではなく、「徳川の支配下に入るのであって、その部下の酒井に服従するいわれはない」といい募ったのだ、という。それをいわせたのは名族としての誇りだったのかもしれないし、あるいは徳川支配下での立場をよくするための策だったのかもしれない。
結局、家康は改めて使者を立て「家康の支配下に入るように」と告げさせる。すると頼忠も自ら子の頼水(1570―1641)を連れて甲斐府中(甲府市)にいた家康の元を訪れ、臣従を誓った。

ところが間もなく両者は決別、戦闘が始まってしまう。
この対立は諏訪氏の裏にいる北条氏も動かし、徳川・北条の正面対決となった――が、結局は晩み合いで終わり、和睦が結ばれた。その条件として諏訪地方は徳川の支配下に入り、結局、頼忠も徳川家臣となったのだ。

以降の諏訪氏について、語るべきことは多くない。徳川家臣として各地を転戦し、家康が関東へ移された際にもすでに代替わりしていた頼水が付き従って武蔵奈良梨1万2千石、また転封されて上野総社1万2千石となった。
頼水は「関ヶ原の戦い」において徳川秀忠に付き従い、真田攻めや上野高崎城(群馬県高崎市)を守るのに功績を上げた。それを評価され、1601年(慶長6年)に父祖の地である諏訪に2万7千石を与えられる。慶長3年に当時の領主が新規築城した高島城(諏訪市)を本拠としたため、信濃高島藩となった。

その後さらに5千石を加増されるが、うち2千石は頼水の孫の忠晴の時に弟2人に1千石ずつを分け与えて分家させたことから、高島藩3万石の譜代大名として幕末まで続いていくことになる。
幕末には諏訪忠誠が若年寄兼外国御用取扱を経て、老中にまでなった。しかし、この経歴を見ればわかるように外国の事情に明るかった忠誠は第一次長州征討に反対、老中を辞める。
戊辰戦争においても新政府軍側につき、近藤勇の甲陽鎮撫隊と戦った。

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