元は信濃国の守護大名家
小笠原氏、といえばなにが思い出されるだろう。兵法・礼法の小笠原流を思い浮かべた方は相当に博識の人といっていいのではないか。
小笠原氏は甲斐源氏の一族であり、甲斐(山梨県)の武田氏と並ぶ名門である。源平合戦で活躍して以来、鎌倉、室町と武家の時代に大きな勢力を誇った。ちなみに、阿波(徳島県)に居住した一族からは戦国時代に入って三好長慶が現れている。
そして、この小笠原氏は兵法、軍学、礼法――すなわち弓馬の道(武士としての心得)に詳しく、そのことでも厚く遇された。故に鎌倉幕府から江戸幕府まで、武家政権において小笠原氏は師範を務めたというのだが、これはあくまで伝説だ。
実際のところ、将軍家の師範を務めた記録が出てくるのは室町時代、京都小笠原家の持長が足利義教の御弓師(弓術師範)となった(『満済准后日記』)とするものが最初だ。代々将軍の師範を務めたというのはあくまで後世の創作にすぎないものと思われる。
さて、本項でとりあげる信濃(長野県)の守護大名も務めた小笠原氏であるが、これだけの名門でありながら戦国大名としてはいまいちパッとしない。というのも、戦国時代に入る少し前、嘉吉年間(1441―44)に小笠原氏内部で大きな内乱が起きてしまったからだ。これを「嘉吉の内訌」という。
その原因は、小笠原氏の家督が小笠原長基の次男・長秀、続いて三男の政康と継承されたのち、長秀の子(諸説あり)・持長と政康の子・宗康が家督争いを始めたことだった。
室町幕府は宗康側が正当として裁定したが争いは収まらず、むしろ幕府に大きな権限を持つ細川・畠山氏が、それぞれ自分たちの味方を増やして勢力を強化するべく干渉したこともあって、両軍は大いに争った。結局、この時は1446年(文安3年)に宗康が敗死したものの決着がつかず、持長の血筋が府中深志小笠原氏として、宗康の弟の血筋が伊那松尾小笠原氏として、晩み合いながら続いていくことになる。
やがて、戦国時代に入るとあちこちで戦いが起こった。
これら小笠原氏に、周辺の諏訪や木曾といった有力国人との目立った争いはなく、府中と伊那松尾の両小笠原氏が晩み合いと小競り合いを続けながら、周辺の小国人を吸収し、勢力を拡大し続けていた。
そのなかで府中小笠原氏が本拠地である府中(長野県松本市)から一時とはいえ追い落とされたり、伊那松尾小笠原氏が1479年(文明11年)から1493年(明応2年)の間、分裂して内紛を起こすなどの騒動もあった。
または一度は両者の間に婚姻が成立したことさえあった。
だが、結局は府中小笠原氏の長棟(1492―1542)が3年に渡って伊那松尾小笠原氏を攻め、ついには甲斐に追い落とし信濃小笠原氏の統一という悲願を果たした。
どうして長棟がここまで伊那小笠原氏を攻めるのにこだわったかの背景として、江戸時代に成立した小笠原家臣・溝口氏の記録である『溝口家記』は次のような逸話を伝えている。
かつて、小笠原宗康の子で鈴岡小笠原氏の政秀は伊那松尾小笠原氏に謀殺されているのだが、この時に一族の家宝と重要な文書を妻に託した。その遺産が国人の下条氏に託されていることを知った伊那松尾小笠原氏が下条氏を攻めたので、長棟は家宝を守るために3年にも渡って兵を出したのだ、というのである。
武田氏の信濃侵略
長棟の晩年の頃、信濃情勢に変化が起きる。甲斐の武田信玄(この頃は晴信)が信濃侵略に動き出したのだ。もとより、信玄の父・信虎の頃より武田氏は信濃侵略の機をうかがっていたので、その方針を受け継いだ形になる。
信玄は1542年(天文11年)、諏訪頼重を攻め滅ぼすと、さらに信濃中央へ攻め込んだ。ここには小笠原氏に次ぐ信濃の名門である葛尾城(長野県坂城町)の村上義清がいて、信玄と何度も争った。この際、長棟の子・長時(1514―83)は義清の頼みを受けて援軍を出し、信玄と戦っている。
というのも、長時は元より信虎・信玄の親子と戦ってきていたからだ。
一度、頼重が武田氏についた時などはその居城を攻め、救援にやってきた武田軍とも戦って頼重を降伏させた、ということもあった(『寛政重修諸家譜』)。
信濃守護として、そしてなによりも武田氏に劣らぬ名門として、信濃で勝手はさせぬ、という強いプライドがあったのだろう。長時自身も勇猛な武将であり、武田なにするものぞ、の心もあったに違いない。
ところが天文17年、長時は信玄との「塩尻峠の戦い」に敗れてしまう。その敗因は、信玄が謀略をめぐらせて仁科氏らを戦わずして引き揚げさせるなど、長時に背かせたことにあったという。
そもそも、この頃の小笠原氏は戦国大名化してはいたものの、家臣団・支配勢力に対する統率・支配力は決して大きなものではなかった。この地域では比較的に大きな力と、信濃守護の権威を武器に、どうにか武士たちをとどめていたにすぎない。その隙を突かれ、武田氏に敗れてしまったのだ。
『寛政重修諸家譜』はこの時に仁科氏が戦わずに帰ってしまったのは、「諏訪を領地として欲しがっていたのに、長時がそれを認めなかったから」と語っている。このことからも、小笠原氏の統率力のなさが伝わってくるのではないか。
その後、長時は本拠地である府中の林城(松本市)に戻るが、敗戦による痛手は大きく、2年後にはそれも失ってしまう。それでもしばらくは中塔城(松本市)という山中の小城に籠って戦い続けるが、周辺をすっかり制圧してしまった武田氏の前には分が悪い。ついに天文21年頃、信濃より完全に追い落とされてしまう。
なお、中塔城での戦いの前に、信玄より「従えば旧領を安堵しよう」と降伏を進められた長時は、「確かに先祖を遡れば武田氏は兄で小笠原氏は弟だが、朝廷に仕えていた際にはしばしば武田の上位に立ってきた。なのに今私が武田の下については、先祖に申し訳が立たない」と答えた――と『寛政重修諸家譜』にある。名門・小笠原のプライドがそこまでいわせた言葉であるわけだ。
信濃を追われた長時は、まず同族のよしみで三好長慶の摂津芥川城(大阪府高槻市)へ、続いて越後(新潟県)の上杉謙信のもとへと各地を転々とした。
畿内滞在時には小笠原氏の正統を継承するものとして、時の将軍・足利義輝に弓馬の師範を教えていたことが『信府統記』に記されている。
最後には会津の蘆名盛氏を頼ったが、この地で家臣に殺されてしまったという。それが1583年(天正11年)、中央では織田信長の後継者の座をめぐって羽柴(豊臣)秀吉と柴田勝家が争っている頃だ。
紆余曲折の末の悲願達成
長時が信濃を追われた時、息子の小笠原貞慶(1546―95)もこれに付き従っていた。
摂津までは父とともにいたのだが、長時は謙信を頼らず、代わりに諸国を回って小笠原氏再興の道を探った。といってもこの親子は決別したわけではない。のち、会津に父を訪ねた貞慶に、長時は代々の家宝を授け、己の家督を継ぐ小笠原氏の当主として認めたという(『寛永諸家系図伝』)。
その後、1575年(天正3年)に織田家臣から「来年には信長自ら信濃へ出陣する」「そうなれば、当然小笠原氏はふたたび信濃守護に戻れるだろう」「今こそ決意を固める時だ」といった意味の書状が届いたのを機に、織田信長のもとへ身を寄せる(『書簡井證文集』)。
書状の内容とは裏腹に、信長はすぐに信濃へ出陣しようとはしなかった。貞慶は失望したかもしれないが、しかし大大名の空約束など、深く信じてもいなかったに違いない。以後、織田家臣団の一員として各地へ手を伸ばして情報を収集し、将来の信濃奪回のために働いていた。
そしてついに天正10年、織田軍が武田氏を倒し、甲斐・信濃を攻め取る。
貞慶は欣喜雀躍して信濃へ30年ぶりに帰ったのだろう。
ところが、この時は小笠原氏の宿願がかなうことはなかった。信長は貞慶の活躍よりも、信玄の娘婿であるにもかかわらず織田方についた木曾義昌の功績を評価し、彼に小笠原氏の旧領である筑摩・安曇の両郡を与えてしまったからだ。
焦った貞慶は信長に直接懇願しようとしたが、会ってさえもらえなかった。こうして一族の宿願はかなわないままかと思われたが、この年のうちに大事件が起きる。信長が京の本能寺で明智光秀に殺されてしまったのだ。
その結果、信濃は周辺諸大名――上杉、北条、徳川による草刈り場となってしまう。かつての小笠原氏の本拠地である府中深志のあたりは上杉氏の支配地となり、小笠原一族で貞慶の叔父である洞雪が入った。
これに対して旧領奪還を目指す貞慶は、徳川家康の支援を受けて再興活動を開始。
洞雪と上杉家臣団が地元の国人たちからの信頼を失っていたこともあり、この年のうちに深志城を奪い取ることに成功した。この時に深志を松本と改名し、深志城も松本城となり、その後に領主となった石川氏が建てた天守は、今に国宝として残っている。
その後の小笠原氏
こうして徳川氏の庇護のもとで旧領回復の悲願を果たした小笠原氏であったが、1585年(天正13年)に思わぬ動きを見せている。徳川を裏切り、豊臣側についたのだ。
この年は徳川と豊臣が戦った「小牧・長久手の戦い」の翌年であり、その境界である中部地方では両者の晩み合いが演じられていた。そして優勢であったのは中央を制圧する豊臣方であったから、裏切ること自体は不思議ではない。
だが、旧領回復の恩を忘れてなお裏切るのには、相応の理由があったはずだ。
原因となったのは、徳川の重臣・石川数正が豊臣方に裏切ったことだとされる。
数正は家康の側近中の側近であり、また貞慶の旧領奪還の際の徳川方窓口になった人物でもあった。その縁で、彼のもとには貞慶の嫡男である秀政(貞政。1569―1615)が人質として預けられていたのだが、数正はこの秀政を連れて秀吉のところへ駆け込んだのである。
つまり貞慶は息子の命を守るために豊臣方についたのでは、と考えられるのだ。
その後、徳川が豊臣に臣従したことで、小笠原氏の立場もまた変わる。
同じ信濃の真田氏とともに徳川の与力大名(戦時に軍事指揮下に入る)となったのだ。さらに徳川が旧領から関東へ移されると、これに従って下総古河3万石へ移された。この頃にはほぼ完全に徳川家の家臣となっていたのだろう。
「関ヶ原の戦い」においてはすでに代替わりしていた秀政が、当然ながら東軍に与し、宇都宮城(栃木県宇都宮市)に入って会津の上杉景勝が関東に攻め入ってこないように備えた。この功績を評価されてか、戦後に信濃飯田5万石に、さらに1613年(慶長18年)になって父祖の地である信濃松本8万石へ転封・加増を受けている。
1615年(元和元年)、秀政は「大坂夏の陣」へ出陣。嫡男の忠脩(松本城を守るように命じた父に逆らって出陣していた)とともに討ち死にしている。
そこで小笠原家は忠脩の弟の忠真が継ぎ、父と兄の戦功によって播磨明石10万石を与えられた。この家はのちに豊前小倉15万石となり、幕末を迎える。
ちなみに、小笠原一族には忠脩の子・長次の家系である播磨国安志藩主家、忠脩と忠真の弟である忠知が祖の肥前国唐津藩主家、小倉藩から別れた千束藩主家という大名家、及びいくつかの旗本家がある。
だが、これらとはまた別の系統で、越前国勝山藩主の小笠原家がある。
この家はかつて小笠原一族を二つに分けた伊那松尾小笠原氏の末裔で、信濃を追われた後は甲斐の武田氏を頼り、武田氏の信濃占領後は旧領の松尾城(長野県飯田市)に戻っていた。しかし、信長による甲斐・信濃侵略に際しては武田を裏切って織田につき、信長の死後は徳川支配下へ移る。
その後、幾度かの転封を経て、越前勝山2万3千石の大名として幕末まで残ったのだった。
幕末期、小倉藩はその領地が関門海峡を隔てて長州藩と接するため、かなりの緊張関係があったようだ。
二度に渡る幕府の長州征討においても最前線で参加することになり、とくに第二次長州征討においては領内に攻め込まれ、企救郡を奪われている。藩として消滅するようなことこそなかったものの、小倉藩小笠原家には受難の幕末といっていいだろう。
そして最後に、弓馬礼法の家としての小笠原氏についても触れてこの項を終わりとしたい。
これがまったくイメージと違うのだが、じつは大名・旗本の小笠原家は江戸時代を通して礼法を教えて暮らしの術とすることを禁じられていたので、むしろ礼法小笠原流は民間の浪人たちによって伝えられ、隆盛を極めることとなったのだった。
小笠原流は江戸時代においてはそれまでの武家の礼法としてだけでなく女子の躾としても受け入れられ、明治には女学校の礼法指南書に採用された。さらに戦時下では文部省の「礼法要項」に取り入れられるなど、時代を超えて用いられ続ける。
その結果、現在においてもいくつかの系統の小笠原流が受け継がれているのだ。