苦難の有馬臣従
肥前の彼杵郡(長崎市ほか)に勢力を持った大村氏は、その血を平安時代の藤原純友に遡るとしていた(『大村家譜』ほか)。だがこれは同じく純友の子孫を名乗る有馬氏と同じく、信憑性に欠ける。
大村氏は彼杵郡においては群を抜いて強い力を持ったが、しかしそれは天下に覇を唱えるどころか、肥前という狭い地域でさえ確固たる力を持つほどではなかった。そのため、戦国時代には長く近隣の有馬氏に頭を押さえられ続けた。
例えば大村純伊(1459―1537?)は有馬貴純によって領国から追われ、貴純の娘を妻に迎えることを条件にようやく戻ることができた。
また、その純伊の子の大村純前(?―1551)は実子を差し置いて有馬晴純の子・純忠(1533―87)を養子に迎え、家督を譲った。もちろん、本人が望んだはずもない。有馬氏の力で押し付けられたのは明らかだ。
純忠とキリスト教
大村氏に望まれたものではないにせよ、有馬晴純の次男・純忠が大村氏の当主となったのは事実だ。
そして、これより本項で紹介する大村氏の物語は、ほとんど純忠の物語といってよい。そのくらい、彼は戦国時代の大村氏を代表する人物なのだ。
純忠にとって大きな転機となったのが、1563年(永禄6年)のイエズス会の宣教師によるキリスト教への入信だった。「バルトロメウ」の名をもらっている。これが日本初のキリシタン大名の誕生であり、以後、多くの戦国大名たちが西欧諸国との南蛮貿易の旨味を求めてキリスト教へ入信していくことになる。
じつは、この入信には、そこに至る事情があった。もともと、肥前にはポルトガル船が来航する港として松浦氏が支配する平戸(長崎県平戸市)があり、ここは布教の拠点としても期待されていたはずだ。
ところが、別記事の松浦氏の項で記すとおり、平戸の松浦隆信は貿易の利益を求めながらもキリスト教への不信感が強く、ついには永禄4年、トラブルの末にポルトガル人が殺される事件まで起きて、とても貿易・布教の拠点としては使えなくなってしまった。
そこで宣教師たち、そしてまたポルトガル商人たちが期待したのが大村氏であった。そして純忠も局面打開のために貿易の利を求めて彼らの来航を許し、自らも宣教師としっかり話し合ったうえでの受洗を決めたのである。
横瀬浦、福田浦、長崎浦の発展
南蛮貿易のため、最初に用意されたのは横瀬浦(長崎県西海市)の港だ。
ここが平戸に代わる新たな貿易港として発展する予定だったが、純忠が受洗した永禄6年に事件が起きる。なんと、仏教徒の商人によって港に火が放たれ、一面の焼け野原にされてしまったのだ。
この背景には、大村氏の内部対立があった。先述したとおり、純忠は有馬氏の圧力によって本来の後継者を押しのける形で大村氏の家督を継いだ人物である。そもそもこのことに不満を持つ大村家臣は少なくなかった。
しかも、突然によくわからぬ異教に入信してしまう。もともとの不満がついに爆発したのだ。
1572年(元亀3年)、反純忠派は、武雄の後藤氏に養子へ出されていた本来の大村氏後継者・貴明と手を結ぶ形で純忠を居城・三城城より追放した。横瀬浦を焼き払ったのも一連の行動である。
しかし、純忠の後ろには有馬氏がいる。その支援を受けて反乱を鎮圧した純忠は、以前よりもさらにキリスト教に執着するようになり、神道・仏教の弾圧と家臣・領民の半ば強制的な改宗を進めた。
一方、南蛮貿易を求めることも忘れなかった。永禄8年に新たな港として福田浦(長崎市)を開いたのだが、ここが貿易の利を奪われた平戸氏に攻撃されたこと、また外界に接しているせいで暴風雨の時などは使いにくかったことなどがあり、ポルトガル人は別の港を欲していたようだ。
結局、宣教師たちと純忠の交渉の結果、長崎浦(長崎市)が開かれた。この港は大村氏よりイエズス会に寄進され、以後、長く貿易の中心として繁栄していくことになる。
もうひとつ、大村氏とキリスト教の関係のなかで見逃せないのが、1582年(天正10年)の天正遣欧使節の派遣である。
九州のキリシタン大名である大友宗麟・有馬晴信・大村純忠の名代として四人の少年――宗麟が伊東氏と血縁があったことから大友家名代として選ばれた伊東マンショ、晴信の従弟で純忠の甥にあたる千々石ミゲルが正使となり、彼らと同じ年頃で有馬のセミナリオ(神学校)でともに学んでいた中浦ジュリアン・原マルチノが副使となり、遠くヨーロッパまで旅をすることになったのだ。
彼らはスペインで国王フェリペ二世(当時フェリペ一世としてポルトガル国王兼任)、そしてまたローマでローマ教皇グレゴリオ十三世とそれぞれ謁見することに成功したが、8年を超える長い旅の果てに彼らが戻ってきた時には、豊臣秀吉により伴天連追放令が布告されていた。
周辺情勢に翻弄される
こうして経済的に大きな発展を見た大村氏であったが、周辺勢力との争いでは劣勢が続いていた。とくに、急速な発展を果たして九州三強の一角を占めるほどになった龍造寺氏はたびたび大村氏を脅かした。
こんな時は盟主である有馬氏を頼りたいところだが、その有馬氏自身が龍造寺氏に苦しめられていて、それどころではない。
そしてついに純忠は龍造寺隆信の前に膝を折った。龍造寺氏への服属は、大村氏と深い血縁関係にある有馬氏を裏切ることになるわけだが、家を守るために背に腹は変えられなかったのだ。
この時、戦国の世の習いとして二人の息子たちを龍造寺氏に人質として出しているのだが、一方で末子は有馬氏のところへ送っている。二つに裂かれた純忠の心を見るような行いといえよう。
龍造寺・有馬関係は緊迫感を増し、1584年(天正12年)には「沖田畷の戦い」での決戦に至った。
この時、薩摩(鹿児島県)の島津氏から援軍を招き寄せた有馬氏に対して、龍造寺氏は大軍をかき集めるだけでなく、大村氏にも出陣を命じた。
ただ、この時に純忠は決戦には参加していない。移動中を島津軍に妨害され、島原城(島原市。江戸期の島原藩政庁とは別。浜の城)に入ることになったからだ。
それでも、もし戦わなければならない時には「弾を込めずに銃を撃とう」と申し合わせた、という。
しかし、その申し合わせが行われることはなかった。有馬・島津連合軍が龍造寺の大軍を打ち破って勝利したからだ。
その後、天正14年から始まった豊臣秀吉の九州攻めに際しては有馬氏らとともに秀吉に臣従し、息子の大村喜前を豊臣軍に参加させている。これによって2万7900石あまりの所領を安堵された。
だが、純忠自身は豊臣勢に九州が平定された天正15年に亡くなってしまった。
その後の大村氏
純忠の後を継いだ喜前はほかの九州の諸大名とともに朝鮮出兵に参加。また、「関ヶ原の戦い」では九州において徳川家康方の東軍として、西軍の小西行長領の城を攻めるなどの活躍をしている。
なお、かつて彼の父がイエズス会に寄進した長崎の町は、九州を平定した秀吉が出した伴天連追放令によって南蛮人たちの手を離れ、まず秀吉の、のちに徳川家康の、と天下人たちの直轄地になった。このことは大村氏を潤していた南蛮貿易の利益が失われたことを意味し、経済的危機に陥ることになった。
1607年(慶長12年)、喜前は息子・純頼の提案を受けて「御一門払い」――大村氏庶家の追放と領地の没収を断行する。これは藩主の力を強化するだけでなく、貿易利益を失った結果の経済的危機を乗り越えるための処置でもあった。
なお、喜前は慶長7年には父以来のキリスト教への信仰を捨て、打って変わって弾圧に転じた。
かつての豊臣政権時代に伴天連追放令は出ているとはいえ、徳川政権・江戸幕府においては黙認状態であったので、幕府方針とは関わりはなさそうだ。将来的な禍根を断ったのかもしれないし、あるいは貿易の利を失ったことと関係しているのかもしれない。
幕末期には早い段階で尊王・倒幕派に藩論は傾く。それに反対する佐幕派による尊王派暗殺事件などもあったものの、むしろそれによって藩論は完全に倒幕へ向かった。
鳥羽・伏見の戦いの前哨戦、及びそれに続く戊辰戦争にも新政府側で参加し、活躍している。