東濃の雄、遠山七家
遠山氏は、源平の合戦で源頼朝方として活躍した加藤景廉が、美濃国恵那郡遠山荘(岐阜県恵那市など)を褒美として授かったことに始まる一族だ。
美濃国東部に広く勢力を持ち、戦国乱世の頃には宗家のいる岩村城をはじめ、苗木、明知、明照、飯羽間、櫛(串)原、大井の7城を拠点とする諸家が「遠山七家」と呼ばれた(諸説あり)。遠山氏は美濃守護・土岐氏と並んで、この地域では有力な一族と目されていたのである。
しかし、ある地域で群を抜いた強者であっても、周辺全体に目を向けてみると、強者の干渉を受けず独立した勢力であるのは難しい。
とくに彼らが根を張った美濃東部は、近江(滋賀県)、そして京へ向かう中山道が信濃(長野県)からつながる交通の要所であり、しかも隣接する信濃には甲斐(山梨県)から進出した武田氏、尾張(愛知県)に織田氏、三河(愛知県)に松平氏、と有力勢力が割拠していた。自然、遠山氏は一族内部では結束を固めつつ、外部に対してはその時その時の強者に恭順し、また八方美人的な政策をとらざるを得なかったのである。
戦国時代中期の享禄年間(1528―31)頃、三河で松平清康が大いに勢力を伸ばし、尾張・美濃にもその手を伸ばしていた。遠山氏はほかの東濃の諸将とともに恭順したが、清康が部下に殺害されたため、この関係は消滅している。
続いて東濃に手を伸ばしたのは甲斐の武田信玄である。もとより西方への進出を企図していた信玄が、信濃の次に美濃へ進んだのはごく当然のことだった。1556年(弘治2年)までには、すでに遠山氏は武田の影響下にあったようである。
一方、尾張では織田信長が、その目を美濃へ向けようとしていた。しかし信長の場合、東濃を通って北や東に抜けようとしていたわけではなさそうだ。そもそも彼の狙いは上洛であって、美濃を経由して西へ向かうのが目的だったのだからそれも当然である。
にもかかわらず、信長は遠山氏に接近した。なんのためかといえば、遠山氏を通して武田氏と誼を通じるためだ。
まず信長は、遠山氏宗家、岩村遠山氏の景任(?―1572)に叔母のおつやの方(岩村御前とも)を、岩村を生家とし苗木遠山氏を継いだ直廉(正廉。?―1570)には妹を要らせた。
それだけではない。妹と直廉の間に生まれた娘を養女として引き取ると、信玄の跡取りである武田勝頼に正室として送り込み、しかもその翌年には自らの嫡男・信忠と信玄の娘の婚約まで取り付けたのだ。
ここまでしたのは、信長が戦国最強と謳われた武田軍団と信玄を恐れ、どうにかしてその侵攻を押しとどめようとしていたからにほかならない。
この信長の思惑は、遠山氏としても都合のいいものだったはずだ。織田と武田が衝突すれば、間違いなく遠山氏も巻き込まれる。どちらにつくかを選ばなければならなくなり、そして選ばれなかった方はかならず力ずくで東濃に攻め込んでくる。遠山氏にとってはうれしくない展開だ。
そうしないために、織田・武田の婚姻政策にも少なからず遠山氏の関与・折衝があったかもしれない。
己を挟むふたつの勢力の間を良好に保ち、自領を守ろうとするのも、境界大名としてはポピュラーな戦略といえるだろう。
岩村城の悲劇と宗家の滅亡
しかし残念ながら、東濃の平和は長くは続かなかった。
信長が上洛を果たしてその勢力を急速に拡大していくと信玄が信長を敵視するようになっていったからだ。信長と敵対することになった足利義昭や朝倉義景、本願寺顕如といった諸勢力が、信長と戦うために信玄の武力を頼った、ということでもある。
1570年(元亀元年)、武田重臣で高遠城主(長野県伊那市)の秋山信友に、信玄より「(景任の)岩村城を攻め落とし、東濃を奪い取れ」という指令が下る。もちろん、目的は織田氏を攻めることだ。たちまち大軍が岩村城を包囲する。
信長も手をこまねいていたわけではない。すぐに援軍を送り、織田・武田の両勢力が岩村城をめぐって激しくにらみ合うことになった。この戦いは3年にも及び、そのなかで事態に変化が起きる。
岩村城主の景任が病に倒れ、帰らぬ人となったのだ。さらに苗木城の直廉も同じ時期に亡くなっている。遠山氏は窮地に陥ってしまった。
この時、立ち上がったのがおつやの方だ。彼女は甥の信長に働きかけて、その子・御坊丸を養子としてもらい受けると、まだ幼いこの子を岩村城主にした。といっても、とても城主としての働きはできないので、城の実務は己が切り盛りする形にした。ここに実質的な城主・おつやの方が誕生したのである。
背景として、遠山氏への支配力を強めたい信長の思惑があったのは間違いないだろう。
城主を失った苗木遠山氏の後継者として遠山一族のなかから新たな後継者を連れてきていることからも、織田・武田双方に誼を通じてきた遠山氏を完全に自らの支配下に収めたい信長の意図が感じられる。
ところが、事態は信長にとって思わぬ方向へ展開する。
多年にわたる武田勢の攻撃を支えきれず、元亀3年、岩村城のおつやの方が降伏したのである。交渉の末、寄せ手の将である秋山信友がおつやの方を嫁に迎え、岩村城主となることで降伏が受け入れられた。御坊丸は甲斐に人質として送られたらしいが、はっきりしない。
この時のおつやの方の振る舞いには謎が多い。歴史上、女性は嫁入りしてもその立場はどちらかといえば生家に属するものと見られていた時期が長く、例えば江戸時代でも夫と妻の財布が別だった、などという例がある。
にもかかわらず、彼女は織田氏を裏切り、遠山氏のために、武田氏と和解した。一族の保存ということを考えればわかる話だが、彼女の立場を思えば首をひねる。
女城主とは名ばかりで発言権はなかったのか。それほどまでに亡き夫の城と領民を守ろうという気持ちがあったのか。今となってはわからないことである。
確実にわかるのは、これを知った信長が激怒したことだ。
面子を潰されたのだから当然である。この頃の信長は畿内での戦いに忙しく、また1573年(天正元年)に信玄が死去し、勝頼に代替わりしたといっても武田氏の脅威が大きかったため、すぐに動くことはなかったが、遠からぬうちの逆襲を心に誓ったはずだ。
信長にとって好機がやってきたのは天正3年のことだ。
この年、織田・徳川連合軍は「長篠の戦い」で武田軍を迎え撃ち、これを破った。多くの兵と重臣を失った武田の勢力は一気に減退し、岩村城の守りも薄くなる。信長は復讐の機会を見逃さなかった。
長篠の戦いから間もなく、織田信忠率いる軍勢が岩村城を取り囲み、大いに攻め立てる。勝頼も重臣を守るために援軍を集めて出陣したが、間に合わなかった。
ついに信友とおつやの方は家臣とともに降伏し、信長の命によって皆殺しにされてしまった。
こうして、遠山氏の宗家である岩村遠山氏は滅亡してしまったのである。
その後の遠山氏
岩村遠山氏が滅んでも、東濃の遠山氏が根絶やしにされてしまったわけではない。信長も苗木遠山氏は保護し、自らの家臣団に加えていたからだ。
しかし、動乱の世はまだ終わらない。信長が「本能寺の変」で倒れた結果、旧織田家臣団及びその同盟者であった徳川氏が信長の後継者争いを始め、東濃もその渦に巻き込まれていったからである。
この時、苗木城主(岐阜県中津川市)の遠山友忠(生没年不詳。直廉の義孫)は隣国三河の徳川家康に与する立場をとった。
一方、美濃金山(岐阜県可児市)には森長可がいて、中央で急速に勢力を伸ばす羽柴(豊臣)秀吉の支配下に入っていた。ちなみに、森氏は信長時代にあの岩村城も預かっており、信長と一緒に本能寺の変で死んだことで知られる森蘭丸が城主を務めている。
信長の死後、秀吉は次々とかつての同僚や信長の子たちを打ち倒し、あるいは服属させて、後継者レースをひた走っていた。そんな彼の前に立ちはだかったのが、信長の同盟者であった徳川家康である。
秀吉は遠山氏に「森氏の支配下に入れ」と命じ、遠山氏は家康の存在をバックにしてこれを拒否した。つまり、苗木遠山氏は秀吉と家康の代理戦争において、森氏と対峙する、という立場に追いやられてしまったわけだ。宗家が滅びてなお境界大名的なポジションに置かれてしまうのは、要所に領土を持つ小大名の悲哀というべきか。
ただ、この時の勢いは明らかに秀吉方にあった。遠山氏も頑固に城を守ったが、周辺の諸将が次々と秀吉側についてしまったため衆寡敵せず、ついに城を開け渡し、家康を頼って逃れた。
その後、長く徳川家臣として仕えていた苗木遠山氏に、活躍の機会が訪れる。友忠の子・友政(1556―1619)らが、関ヶ原合戦時に美濃で活躍。友政は苗木城を攻め落としたのだ。この功績を評価されて戦後に苗木城を与えられた苗木遠山氏は、以後幕末まで苗木藩主を務めた。
最後の藩主である友禄は文久・元治・慶応という幕末の激動期に若年寄を務めて幕政に深く関わったが、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗北すると新政府への恭順を示し、戊辰戦争でも新政府軍側についた。
ちなみに、苗木遠山氏と行動をともにして存続を勝ち取った遠山一族として、明知遠山氏がある。彼らは大名家にはなれなかったが旗本として残り、名奉行として名高い遠山景元を輩出している。