日向南部をめぐって島津氏と争う
伊東氏は藤原氏の一流である藤原南家の流れで、駿河・伊豆(ともに静岡県)国司を務めた名門・工藤氏の一族である。このうち、伊豆国田方郡伊東荘を本拠としたものたちが伊東を名乗った。
鎌倉幕府において日向国(宮崎県)で地頭職を与えられたことをきっかけに九州へ下向し、以後この地で勢力を広げた。本拠地は都於郡(宮城県西都市)である。
この伊東氏にとって最大の敵は、南の薩摩・大隅(ともに鹿児島県)に強大な勢力を持つ島津氏であった。
室町時代は一般的なイメージとして、足利将軍家と室町幕府の権威によって泰平の世が築かれていたと思うかもしれない。しかし、実際にはたびたび紛争が起きていた。伊東氏と島津氏はまだ室町幕府がかろうじて権威を残していた文明年間(1469―87)より、激しく争っていたのである。
両勢力にとって争奪の対象となったのは、日向国南部の飫肥(日南市)・櫛間(串間市)、南西部の庄内(都城市)・三俣であった。これらは島津氏が日向に持っていた所領であり、伊東氏としては日向統一を目指すと同時に、島津の力を削ぐことで自らを守る意図もあったに違いない。
1484年(文明16年)、時の伊東氏当主、祐国は飫肥攻めの兵を挙げた。
8千ずつ二手に分けて合計で1万6千という『日向記』『日向纂記』に見える兵数は、当時の国力からしてさすがに過大であろうが、全力を尽くしての出撃だったというのは間違いないだろう。
ところがこの時は背後で日向北部の土持氏が蠢動していたので引き上げざるを得ず、翌年改めて飫肥を攻めた。しかし、攻めあぐねるうちに島津の援軍が到着し、激しい戦いのさなか、本陣が突かれて祐国が討ち取られたため、戦いは伊東軍の敗北に終わったのである。
大友・島津に振り回される
祐国の子、18歳で当主となった伊東尹祐(いとう・ただすけ、?―1536)は、父の仇を討つことを望んだが、また、尹祐を擁立する一派と、尹祐の叔父で一族の実力者である伊東祐邑を擁立して尹祐を排除しようとする野村右衛門佐(尹祐・祐邑の母方の叔父)一派の対立まであった。
この結果、祐邑及び野村、さらには野村の一族まで殺害され、国内は大いに乱れた。
こうなると、むしろ島津氏の方から攻め込んできそうなものだが、そのような動きもなかった。島津氏は島津氏で内部に問題があり、両者は晩み合いが続いた。
そこにしばしば介入してきたのが北九州の雄、豊後(大分県)の大友氏であった。1495年(明応4年)に双方に働きかけ、飫肥の代わりに三俣を伊東氏に渡すことを認めている。
また、1521年(大永元年)には大友義鑑が伊東氏・島津氏の双方に働きかけて和睦に導こうとし、これがうまくいかないとなると島津側からの要望に応え、島津が攻めるのであれば大友も攻める、と約束までしていることが『薩藩旧記雑録前編』収録の書状群によってわかっている。
さらにのちの話になるが、1560年(永禄3年)に時の将軍足利義輝が、伊東・島津の両者を和睦させようとした際にも大友氏はこの話に絡んできて、最終的に「伊東氏が約束に反した際には大友が島津と手を組んで伊東氏を攻める」という約束を結んでいる。
どうしてこのようなことになったのか。
島津側としては、大友が伊東と組んで攻めてくるのが怖い。一方、大友氏としては日明貿易・琉球貿易を進めていたのだが、その船のルートは島津氏の所領近くを通っていたので、島津との関係を悪化させたくはない。
それぞれに、自分の都合によって伊東氏を振り回していたともいえるわけで、九州を代表する2大勢力に挟まれた境界大名の世知辛さがここにある。
伊東氏の絶頂と転落
尹祐、その長男の祐充、3男の祐吉と続いた伊東氏の治世は、たびたび内紛があって領内が安定せず、尹祐の時にせっかく手に入れた三俣も島津氏、及びその支族の北郷氏の攻撃によって失ってしまうという厳しい時期だった。
そんななかで1536年(天文5年)に当主となったのが、伊東義祐(1512―85)である。この人物のもとで、伊東氏は最盛期を迎えることになる。
しかし、彼が伊東氏の当主になるまでは混乱続きだった。
義祐は尹祐の次男で、兄・祐充が死ぬと内紛で一時外へ逃れなければならず、それが収まった後は義祐に反発するものが祐吉を擁立し……という具合で、なかなか義祐が伊東氏の権力を掌握することはできなかった。しかし祐吉がすぐに亡くなったので、義祐が当主となったわけだ。
当主となった後もしばらく続いた領内の混乱を収めた義祐は、一族の悲願を果たすべく南に目を向けた。飫肥攻めである。
この戦いは、なんと27年にも及ぶ長大なものになった。
もちろん、その間ずっと戦っていたわけではない。時に伊東氏が有利になり、また時には劣勢になり、兵を退いている期間も長かった。飫肥城を一度は攻略しながらも、半年足らずで奪還されたこともある。先述した足利義輝による和睦仲介があったのもこの時期のことだった。
しかし、義祐は大隅の肝付氏と手を組んで挟み撃ちにすることによって島津氏を追い詰める。そして、ついに伊東氏の執念が島津氏の抵抗を押し切り、1568年(永禄11年)、飫肥城が伊東氏のものとなったのである。
この頃が伊東氏にとってもっとも所領を広げた時期である。だが、好事魔多し、とはよくいったものだ。1572年(元亀3年)、日向南部の真幸院を奪い取ろうとした伊東軍は、木崎原(えびの市)で島津軍によって迎え撃たれ、大敗してしまった。
伊東軍は飫肥を奪い取ったばかりで意気は盛んだが、その分、島津を侮るところがあり、また浮足立って統制が確かでない。そこを突かれて散々に打ち負かされたのである。
この敗戦ののち、伊東氏はすっかり内部の統制を失って抗争が相次ぎ、北からは土持氏にも攻められてしまった。
そんな伊東氏と義祐に島津氏の攻勢を支える力はなく、1577年(天正5年)、義祐は日向を捨てて逃亡してしまうのだった。
義祐は母の兄という血筋を頼って豊後の大友宗麟(義鎮)のところへ逃れた。
この頃の宗麟は西欧からもたらされたキリスト教思想に心酔し、周辺勢力を平らげてのキリスト教国家建設への理想に燃えていたから、日向侵攻の大義名分が生まれたこの情勢変化は渡りに船だったのかもしれない。
義祐を迎え入れ、大軍を率いて日向に進んだ。義祐はこれに従軍したとも、あるいはしなかったともいう。
だが、島津は強かった。天正6年、大友軍は「耳川の戦い」で大敗し、この戦い以後、島津・大友のパワーバランスははっきりと島津側に偏った。そして義祐の希望もまた儚く消えたのである。
放浪の末の再興とその後の伊東氏
耳川の戦いの後、義祐は大友氏のもとに長くは残らなかった。息子の祐兵(1559―1600)とともに伊予(愛媛県)へ、そして播磨姫路へと移り、そこで祐兵は羽柴(豊臣)秀吉と出会った。
この出会いが、伊東氏の運命を大きく動かしていく。
ただ、義祐自身は秀吉には会わなかった、という。
相手は足軽上がり、自分は元とはいえ大名で、しかも朝廷から従三位に叙せられた男である。誇りが許さない。しかし一族再興のために祐兵は会うべきだ――プライドと現実がない混ぜになった義祐の心中がこのような振る舞いを取らせたのであろう。
祐兵は秀吉に仕え、秀吉が亡き織田信長の仇を討った「山崎の戦い」で戦功を上げ、500石を得ている。その後、次々と勢力を拡大していく秀吉の姿に、祐兵はその力を借りての島津打倒を夢見たのではないか。
だが、義祐はその実現を見ることはなかった。瀬戸内のあちこちを転々とした末、自ら衰えを自覚したか、息子のいる大坂に向かったが、乗った船の者たちに見捨てられて堺の浜辺で行き倒れた。そこを息子の家のものが見つけ、そのまま大坂で死んだ、という。天正13年のことである。
死んだ父に代わり、祐兵が一族の本願をかなえたのは天正15年のことである。
秀吉軍の九州攻めにおいて、祐兵は東ルートで九州を南下する黒田官兵衛(孝高・如水)の軍を先導し、日向に戻ってきた。飫肥城に入って旧領を回復したのは翌天正16年のことだ。
文禄・慶長の役においてはほかの九州勢と同じく朝鮮へ出兵し、関ヶ原の戦いでは戦前から徳川家康と誼を通じていた。
しかし、祐兵自身は病に倒れており、後継ぎの祐慶(1589―1636)が九州において徳川方の東軍として活躍した。そのため戦後も旧領を安堵され、飫肥藩5万7千石余の外様大名として江戸時代に入っている(のち5万1千石)。
江戸時代後期には極度の財政危機に苦しんだ。
林業の開発に成功し、飫肥杉ブランドを確立、またこれを貧民の救済に結びつけたもののやはり根本的な解決にはならず、幕末になって藩士の家禄3分の1を削減している。
幕末の動乱では近隣の薩摩藩より布告を受けて新政府側についた。