2021-05-01から1ヶ月間の記事一覧
足利義澄の子として11代将軍に就任した足利義晴はその人生の大半を京の外で過ごしています。幼少期は播磨で育ち、将軍就任後も近江へ逃亡することが多く、畿内の権力争いに翻弄された将軍でした。
鎌倉・室町・江戸の武家政権において唯一、将軍職を再任したのが足利義稙ですが、名前も義材→義尹→義稙とたびたび改名しています。 (今回は第二期についての紹介です)
「明応の政変」によって擁立された11代将軍が足利義澄です。しかしその経緯からもわかるように擁立者である細川政元の傀儡だったために反目し合うようになり、最後は京を追われることになります。
近年、戦国時代のはじまりは「応仁の乱」ではなくその後に起きた「明応の政変」であると言われています。このクーデターによって将軍の座を追われたのが足利義材ですが、彼はただひとり二度将軍となった人物でもあります。
その誕生が「応仁の乱」の原因となったとも言われる足利義尚ですが、悲劇の人でもあります。権力を離さず干渉することが多い両親を避けるように、遠征先の近江から京に戻らず、そのまま25歳の若さで病没しました。
攻城団スタジオをつくるにあたって考えたことをまとめました。自宅スタジオってなかなか大変ですね。
政治に無関心で趣味に生きたとされる足利義政ですが、じっさいには政治にも関わろうとしていたようです。しかし彼の歴史的な業績はなんといっても銀閣寺に代表される東山文化でしょうね。
暗殺された父の跡を継いで、9歳で将軍となった足利義勝でしたが、わずか8ヶ月で死去しました。赤痢による病死だったものの父・義教が多方面から恨みを買ったためと噂されたそうです。
仏門の身からくじ引きで将軍に選ばれ、「万人恐怖」と評されるほどの恐怖政治をおこない、そして最後は暗殺された、破茶滅茶な将軍が足利義教です。この頃から室町幕府は滅亡に向かいはじめていたのかもしれません。
17歳で将軍に就任したものの、わずか2年で病没した足利義量は父・義持により殺害された叔父・義嗣の呪いではないかという噂も立ったようです。子どもが若いうちに将軍職を譲り、父が大御所として政務をおこなうスタイルはのちに江戸幕府が踏襲していますね。
足利義満の嫡子である足利義持は父との折り合いが悪く、日明貿易をはじめとする政策を次々と転換させました。義持自身も父同様、隠居して権力をふるおうとしましたが、息子に先立たれてしまいます。
「一休さん」でおなじみの三代将軍・足利義満ですが、じっさいの義満はまさに豪腕と呼ぶにふさわしい将軍でした。守護大名たちの勢力を削ぎ、さらに南北朝の統一を果たすと、日明貿易で莫大な利益を上げました。
わずか4歳で初陣を飾ったとされる足利義詮ですが、将軍就任は29歳になってからです。彼の場合、将軍就任後のことよりも、父・尊氏とともに南朝と戦った時代のほうがよく知られているかもしれません。
鎌倉幕府を倒し、後醍醐天皇と決裂し、さらに弟・直義と戦うなど、波乱に満ちた生涯を送った足利尊氏ですが、主体的に時代をつくったように見えて、時代に翻弄されまくった人なのかもしれません。
今回は室町幕府とその時期の征夷大将軍についてのプロローグとして、足利氏のルーツや室町幕府の仕組みについてまとめました。
宗良親王は弟である後村上天皇によって征夷大将軍に任命されました。一時は室町幕府の勢力を追い詰めるも敗れてしまった宗良親王は、70歳以上も生きた長寿の人でした。
後醍醐天皇の第6皇子である成良親王は当初、鎌倉に派遣されていたものの「中先代の乱」で京に送り返されると征夷大将軍となりました。彼が将軍職についたことが足利尊氏の離反につながり、南北朝の動乱の原因となりました。
後醍醐天皇の第一皇子である護良親王は鎌倉幕府打倒に貢献し、またその後も征夷大将軍として足利尊氏と対立した人物です。しかしエゴが強すぎたのか、最後には父である後醍醐天皇にも見限られ、足利直義によって殺されました。
鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇がおこなった建武の新政はすぐに瓦解します。その後は南北朝時代に突入するわけですが、公家幕府とも呼ばれる南朝にも征夷大将軍がいたのです。