線の細い病弱将軍
4代将軍・義持(よしもち)と、正室・日野栄子(ひの えいし)の間に生まれる。
在位わずか2年で病没したために、父の行いからきた祟りだともいわれ、また彼の死でしばらくの将軍空白期間が生まれた。
11歳で元服、右近衛中将正五位下に任じられた義量(よしかず)は、父が早々に将軍職を辞したため、17歳で将軍宣下を受けることになった。
義持がまだ働き盛りであるにもかかわらず義量に将軍職を譲ったのには、先に述べたように自由な政治を行うためという理由のほか、義量の若いうちから彼の権威を高めておこうという思いがあったからだという。
まだまだ完全に安定しているとはいいがたい情勢の中で、将軍という地位に立つ者として少しでもその立場を確かなものにしておきたい。その考えから、義持は引退後も義量と行動を共にし、朝廷や諸大名の家に赴く時にも連れていったという。
実際のところ、義量が将軍だった時代の実権は「大御所」と呼称された義持にあり、彼はただの飾りに過ぎなかった。
これは後の江戸時代における大御所政治に酷似した政治スタイルである。徳川将軍たちが年若い息子を将軍として立てながらも、老練な自分が実務を行うことによって政治的混乱を防いで、最終的には実権を次代へ譲り渡したのと同じような意図が、義量にもあったのだろう。
しかし、肝心の義量が痩身で体の弱い少年だった。将軍に就任した翌年には、流行り病の疱瘡を患って寝込んでしまう。それでなくとも将軍職というのは、心身共に相当な疲弊を強いられるものである。ひ弱な義量には、到底耐え切れるものではなかった。
加えて、義量はかなりの酒好きであったという。宮中でひどく酔っ払ったり、守護大名の家で酔いつぶれたために院の御所に伺うことができなかったなど、酒による失態をたびたび演じている。
そのため義持に説教されて大酒を禁止され、さらに義量の近臣らにも、義持の許可なしで義量に酒を飲ませることを禁じた。これは義量の失態を咎めるだけではなく、もちろん彼の体を心配してのことでもあった。
呪いによって殺された将軍?
それでも義量の体は弱いままで、結局はそれが彼の命取りになった。
将軍に就任してから2年後の1425年(応永32年)、熱を出して寝込んでいた義量の容態が、急に悪くなった。義持は祈禱を行わせて義量の回復を願ったが、その思いは届くことなく、義量はそのまま息を引き取った。19歳の若さだった。
2年しか将軍職に就いていなかったために、義量が残した事績と呼べるものは、いくつか寺社に出向いたことや、守護大名と会ったことを除き、これといって挙げることができない。
このあまりに早い義量の死に、人々の間では「義嗣の呪いではないか」という噂が囁かれたという。義嗣は義持の弟であり、義持によって殺されたことは彼の項ですでに述べた。その義嗣に義量が呪い殺されたのだという話だ。またその他にも、義量の死の1年前に石清水八幡宮の神人ら数十人が幕府に強訴をして殺されており、その神罰が下ったのだという噂もあった。
このような不吉な出来事を予兆するかのように、義量が発熱によって床に臥した数日後には、数千のヒキガエルが馬場に集まり、幕府に妖気が立ち込めたという話もある。なんとも気味の悪い話だ。
とはいえ実際のところ、義量の死因は生来の体の弱さと、生活環境の悪さであろう。流行り病である疱瘡にかかっていた、という話もある。
「将軍の妻」の実家・日野氏の存在
呪いとは別の見方もある。
義量以降も、足利将軍家には病弱なものが多いのだが、それは彼らの血筋に問題があるのでは、というのだ。
彼の母の実家である日野家は藤原北家から分かれた名門公家だが、特に室町時代には足利将軍家と結びついて大きな力を誇った。室町幕府の歴史に与えた影響も小さくないので、ここで紹介しておきたい。
というのも、三代義満から九代義尚まで、その妻のほとんどがこの日野家から出ているのだ。
一時、日野義賢の代に時の将軍・足利義教による圧迫を受けて没落したが、足利義政の正室になった日野富子の代に復興を果たしている。その富子が原因で、室町幕府衰退のきっかけとなる応仁の乱が起きるのだが――。