稀有壮大な器と期待されたが
家治の父である先代将軍・徳川家重は体が弱く政治にも興味がなかった。しかし家治は幼いころより利発で知られ、学問に励むとともに武術にも熱心だった。祖父・徳川吉宗も彼の将来に期待するところ大で、孫の教育には自らかかわった、という。
たとえば、こんなエピソードがある。あるとき、彼が吉宗の前で「龍」の字を書いていた。しかし、紙にはもう文字が収まらない。周囲の心配をよそに、家治は最後の点を紙からはみ出して畳に落とした。その壮大さには、名君・吉宗も大いに感心したという。
別の話もある。ある小納戸役(将軍の身の回りの世話をする役職)が、家治に「お前は隣家のものとうまくやっていて結構なことだ、私には隣のもののことはさっぱりわからない」と話しかけられた。
江戸城に住む将軍に隣人がいるわけはないから御三家や御三卿のことなのかと思えばあにはからんや、家治のいう隣は外国――中国、インド、朝鮮、オランダ(ヨーロッパ)のことだったのである。鎖国が定まって久しいこの時代にこれなのだから、その器の大きさと視野の広さは相当なものというべきだろう。
――にもかかわらず、家治が幕政の第一線に立つことはなかった。
初期は家重時代から引き続き松平武元(まつだいら たけちか)が実権を握り、やがて田沼意次がこれに代わった。いわゆる「田沼時代」である。意次は家治の父・家重に高く評価された人物で、家重は遺言で「私の死後も彼を重く扱うように」と言い残しているほどだ。
なぜ、聡明だったはずの家治が自ら政治を執り行おうとせず、彼らに任せ切りになってしまったのだろうか。
『徳川実紀』は「意次ら側近たちが彼の才能を伸ばそうとせず、むしろ過去の偉大な将軍の話を聞くのをやめさせるなど、スポイルしたからだ」と語る。また、巨大な官僚制度と化していた江戸幕府を将軍の手で左右するのは無理と悟ったからだという説もある。器は大きくても消極的だったため、優れた側近たちに任せるのを選んだのだ、ともいう。
どちらにせよ、彼の名前は田沼時代の陰に隠れてしまい、本人は絵画や囲碁といった趣味に没頭することになったのである。
田沼時代の功罪
さて、その家治から絶大な信頼を受け、幕政を主導したのが田沼意次である。元は紀伊藩士の血筋で、父の代に吉宗によって幕臣となった。自身は小姓から老中になり、5万7千石にまでなりおおせた出世人である。
彼は重商主義的政策を打ち出した。すなわち、「株仲間(商人や職人のグループ)」を公認して税をかけ、また長崎での外国貿易を拡大するなど、農業を重視してきたそれまでの幕政とは別のかたちで経済を活性化させ、減少していた収入を取り戻そうとしたのである。
これは吉宗時代の重農主義と対を成すものと考えていいだろう。
このような政策は狙い通り商品生産の進展と貨幣経済の活発化をうながしたものの、一方で貧富の差を拡大させ、農村の疲弊と崩壊を招いてしまったのも事実である。また、一部の豪商たちは幕閣に賄賂を贈って自らの商売を有利に進めようと画策したので、「田沼時代=賄賂政治」のようなイメージが定着してしまった。
しかし、これについては賄賂というのは別にこの時期だけの特徴ではなかったことも忘れてはならないだろう。
彼の権威が失墜するに至ったのは、いくつかの事件が原因だった。ひとつは1782年(天明2年)から2年続いて大凶作となった「天明の大飢饉」だ。特に2年目は浅間山が大噴火し、直接的な被害だけでなく、噴き上がった噴煙が日光を遮って凶作をもたらした。
また、この噴火と同じ年には若年寄として活躍していた息子の意知が江戸城内で殺害されてしまう。このことも意次の力を大いに削いだようだ。
とどめになったのは、家治の死であった。
最大の後援者を失った意次は以前から政治的に対立していた松平定信(まつだいら さだのぶ)らによって失脚へと追い込まれてしまう。このとき、意次の送り込んだ医者の薬を飲んだ家治が吐血してまもなく死んだという話から、「意次が将軍を毒殺した」という噂が流れた。
しかし、意次は自分一代で成り上がった出世人であり、いざというときに彼が頼れたのは、自分を寵愛してくれる主人だけだ。その主人を自ら殺害するというのは、ちょっと考えられない。他に真相があると考えるべきだが、不明である。
ともあれ田沼時代は終わり、次代の将軍・徳川家斉を擁した定信による寛政の改革へと移り変わっていくことになる。
将軍としての家治の評価は決して高いものではない。しかし、彼に信任された田沼意次の政治を、経済を大いに発展させた開明的なものと捉える向きもあり、もしそうであるなら「優れた官僚を大いに活用した名君」という見方もできるだろう。