2022-03-01から1ヶ月間の記事一覧
馬防柵などを用いた長篠の戦いにおける信長の戦法が日本における野戦築城のはしりという説もあるとか。他家を圧倒的に凌駕する財力あってのことなのでしょうけど、織田→羽柴と受け継がれた野戦築城術はチート感がありますね。
瓶割り柴田のエピソードは江戸時代に書かれた『武家事紀』が初出ということでおそらく創作なのですが、城のある長光寺山が瓶割山とも呼ばれているように地域の伝承として語り継がれてきたようです。
「第一次上田城の戦い」は作戦としてはわりと単純なのですが、現代でも将棋倒しのような群集事故が起きているのを見てもわかるように大軍が密集するとコントロールが効かず、指揮命令系統は崩壊するのでしょうね。
日本三大奇襲のひとつとされる河越夜戦ですが、近年の研究では前後に起こった数度の合戦が天文15年4月20日の出来事として集約されて伝わったとの説が有力だとか。ちなみに「よいくさ」と読むことが多いのは「やせん」読みだと「野戦」と間違えやすいからだそ…
丸岡城で重ね捺し御城印スタンプラリーがはじまったので取材に行ってきました。悪天候の中、たくさんの方に楽しんでいただけたようでなによりです。まだまだ台紙御城印は在庫がありますのでぜひ花見も兼ねてご参加ください!
全国規模の城割(破城令)といえば江戸時代の「一国一城令」ですが、あれも島原・天草一揆で原城を一揆勢に利用され苦戦したことによるので、お城を放置しておくのはリスク要因なのでしょうね。ぼくらは残しておいてもらったほうがありがたかったんですけど。
攻城戦(籠城戦)にはさまざまな道具も使われました。 城壁をのぼるためのハシゴや井楼はよく知られていますが、ほかにも持備や轒轀車など初めて聞くものもたくさん紹介されています。
戦わずに勝つ、最小の被害で最大の成果を得るというのは合戦後を考えればいかに重要かがわかります。こちらの兵力が削がれて弱体化してしまうと周辺国に攻め込むすきを与えてしまいますからね。
火攻めはともかく、土竜攻めはマンガやドラマの話のようですが、じっさいに野田城は武田信玄がもぐら攻めによって落城させたとか。金堀衆がトンネルを掘って井戸の水を枯渇させ、水の手を断つことに成功しています。
包囲戦において一方向だけ開けておくのは孫子の「囲師必闕(いしひっけつ)」ですね。「囲む師(かこむし)は必ず闕(か)く」として、すべての逃げ道を塞いでしまうと敵が必死になって戦うため、あえて逃げ道をつくっておくのが上策だとか。
「兵法雌鑑」をまとめた北条氏長はあの北条氏の子孫なんですね。曾祖父は「地黄八幡」で知られる北条綱成です。江戸時代は旗本として仕え、最終的には2000石を超えるほど出世したとか。
どこに城を築くかという選地を終えたら、あとは構造を決める設計作業としての縄張、そして土木工事=普請、建築工事=作事という工程で城づくりは進みます。この一連の工程すべてを「築城」と呼んでいます。
人柱伝説はほんとうにあちこちにありますよね。丸岡城、郡上八幡城、白河小峰城、大洲城、米子城……など全国に伝わっているのですが、じっさいに人骨が見つかった例はほとんどありません(日出城くらい?)。 ただ毛利元就が人柱の代わりに「百万一心」と刻ん…
平安京の場合、東青龍を鴨川に、西白虎を山陰道、南朱雀を巨椋池、北玄武を船岡山にあてはめられることが多いのですが、この話は戦後に登場した説で、当時の文献には残っていないそうですね。ちょっとびっくりしましたが。
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江戸時代の軍学者による分類はけっこういい加減なものも多い上に、どっちにも含まれるような曖昧なものがけっこうありますが、お城とその歴史を体系だって整理しようとする心意気みたいなのはよくわかるし強く共感します。
軍事拠点から政治拠点という流れは、かつての城柵への回帰へと見れなくもないのですが、象徴としての天守の存在が決定的に異なります。天守を見せることを考えると山頂にあるよりも、城下町と同じ地平面からそびえ立たせたほうがインパクトが強いですね。
織田信長が農繁期も合戦できるよう常備軍をつくったというのは近年では異論も提示されていて、むしろ武田信玄・上杉謙信・北条氏康といったひと世代前の大名たちも年中、戦をしていたとされます。ただこのあたりも「兵農分離」の定義によるところが大きく、…
大名の支配領域が増え、最前線となる支城網が整備される反面、それは兵力分散となり敵国からの攻撃目標が増えてしまいます。そこで迅速かつ効率的に救援しやすい平城にシフトしていったという説はおもしろいかも。
鉄砲が合戦のカタチを変え、合戦が変われば主要な攻撃目標であるお城も変わるよね、という話。 なるほどと思いつつ、どちらかというと攻撃側の動員兵力と守備側の保護すべき領民の数が巨大化していく中で詰城に逃げ込むことが現実的ではなくなったのではない…
近世城郭の条件として、城下町の形成・拡張が可能かどうかというのはよく聞きますね。 支配領域が広くなれば攻城戦(籠城戦)の機会も減り、むしろ経済を重視せざるを得なくなったという背景もあるでしょうし、増加する人口を受け入れるためにも城下町の発展…
農民の城というのは知りませんでしたが、村長が城主ってことになるんでしょうか。 攻城団のデータベースに登録していくかはさておき、城の定義はほんとにむずかしいなと思いました。
付城や陣城など、小規模で一時的なお城の名称はいろいろあるのですが、おおまかには攻撃側か守備側か、またその役割などによって変わるようです。 (とはいえぼくはぜんぜん覚えられないのですが)
本城と支城――支配領域が広がるにつれて、戦国大名は領国全域をカバーするために支城網を整備します。スムーズに援軍を送れるよう街道を整備したり、緊急時の連絡がすぐにできるよう狼煙台(烽火台)なども設けられました。
戦国時代の城は「平時の居館、戦時の詰城」というセットで運用されることが多かったのですが、これは攻め込まれることを想定したリスク対策でもありますね。全国には山城の麓にあった居館跡が城主の菩提寺になっていることも多いので、訪問時にはチェックし…
土に成ると書いて城――という説明を聞いことがある人も多いと思いますが、城とは基本的に土塁と空堀によって築かれていました。ただそう単純な話ではなく、城の歴史を振り返ってみると、環濠集落・古代山城・城柵といった城のルーツにあたるものから、鎌倉時…
家を遺す上でもっとも大切なことは「強者に目をつけられない」ことです。権力者に媚びるために偏諱を賜うとともに、権力者が交代してしまうとその子を廃嫡するというのはなんとも残酷な話ですが、それが戦国の世を生き抜く術だったのでしょうね。
こうして島津家の歴史を振り返ってみると、島津忠良(日新斎)にせよ、島津忠恒にせよ、本家・嫡流以外が宗家を継いでいるんですよね。嫡子がいなかったとはいえ、一族を見渡して優秀な人材を後継者に任命してきたからこそ幕末まで生き残れたのかもしれませ…
朝鮮の役で朝鮮・明軍から「鬼石曼子(グイシーマンズ)」と恐れられ、関ヶ原の戦いでは見事な退き口で東軍に衝撃を与えた義弘でしたが、もし当初の予定通り彼が伏見城に入っていたら、籠城する鳥居元忠たちと討死していた可能性が高そうです。
この時点の秀吉に対抗できる勢力はもはや日本国内には存在していなかったと思いますが、それでも島津家はかなり激しい抵抗をしています。 それもあってか降伏後の秀吉の処遇は次の北条氏と比べるとかなり差がありますね。