このような城々がそれぞれに重要な拠点となっていたわけだ。
しかし、戦国時代も後期に入って、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康ら三英傑の時代がやってくると、この事情も少なからず変化する。
具体的には、防衛拠点としてポピュラーだった山城に代わって、平城や平山城が一般的になってくるのだ。この流れの延長線上に、私たちがよく知る「天守閣を持つ白亜の城」としての近世城郭がある。
どうして山城が姿を消し、平城や平山城ばかりになっていったのだろうか?
そこには、いくつかの理由を見出すことができる。これらのうちどれが正解というよりも、様々な要素が絡み合って変化していった、と考えるべきだろう。
もっとも一般的な理解は、「政治・経済上の都合から、山城は使いにくくなった」というものである。
先述したとおり、領国を統治するための拠点として、山城は向かない。根小屋式の館を拠点とするにしても、やはり限界はある。大名の支配地域が広ければ広くなるほど、城に求められるのは防衛機能ではなく統治機能になってくる。
交通の便がいい場所、大きな街道に面している場所、商業・流通の流れを活用できる場所のほうが、絶対的に有利だ。そのような場所に城があれば、周囲に活発な城下町が形成されて商業はさらに活発化し、大名にも大きなメリットを与えてくれるわけだ。
また、支配する領国が広くなれば、次々と移り変わる情勢に対してなるべく臨機応変に、すばやく対応する必要が出てくる。遠隔地で何か問題があって、すぐさま兵を送らなければならない時には、やはり交通の便がいいほうが都合がいいに決まっている。