攻城団ブログ

日本の歴史をまるごと楽しむためのブログ。ここでしか読めない記事ばかりです。

攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

2023-01-01から1年間の記事一覧

攻城団のみんなが今年訪問したお城と高評価だったお城

アドベントカレンダー企画として攻城団に入力されたみんなのデータをもとに「2023年に訪問したお城のうち、評価が高かったお城」を抽出してみました。全国的に有名お城だけでなく、けっこう通なお城もランクインしているので来年の攻城計画の参考にしてくだ…

2023年に訪問して良かったお城

アドベントカレンダー企画として「2023年に訪問して良かったお城」について書きました。今年訪問したお城はどれも満足度が高かったのですが、山城ビギナーにも全力でオススメしたい玄蕃尾城を選びました!

【家康の謎】徳川家康はなぜ天下を取れたのか?

NHK大河ドラマ「どうする家康」と伴走してきたこの連載もついに最終回。最後の問いは「家康はなぜ天下を取れたのか?」です。長寿や強運、生まれた場所などいろんな要因がありますが、みなさんはどう思われますか?

【家康の謎】家康の辞世の句は? 家康の遺訓は本物か?

家康が死の間際に呼び寄せた武将として、藤堂高虎や堀直寄らの名前がよくあがりますが、いずれも徳川譜代の家臣じゃなく外様大名というのは、フラットに人物を評価していたのか、あるいは大御所として駿府にいたので(江戸で秀忠に仕える)譜代の面々を呼び…

攻城団テレビで相撲の歴史について話をしました

今回は相撲の歴史について榎本先生に教えてもらいました。信長が相撲好きだったとか、山内一豊が相撲大会を口実に長宗我部の家臣をおびき出して虐殺したとか、相撲にまつわるエピソードもけっこうありますよね。江戸時代には藩のお抱え力士もいたそうです。

【家康の謎】家康の死因は?

徳川家康が天下を取れた最大の要因は「長寿」であったことだと思いますが(あとは強運)、死因はどうあれこの時代に75歳まで生きて、しかも存命中に家督相続や将軍位の継承までやってのけたんですから、もうこれは大往生と言って良いのでは。

【家康の謎】家康はどうして豊臣家を滅亡させたの?

公家として生きるか、徳川臣下の大名(武家)として生きるか、豊臣家または羽柴家として存続のチャンスはあったようにも思いますが、家康にしてみれば滅ぼしちゃったほうが「話が早い」と考えても不思議ではないですよね。

【家康の謎】家康はなぜ江戸に幕府を開いたの?

豊臣家がまだ存在していたから自分の縄張り(江戸=東国)を拠点にした、というのが実情なのでしょうね。関ヶ原後の論功行賞で豊臣系の大名を西に追いやったことを見ても、まずは東から地盤固めをしようと考えたのだと思います。

【家康の謎】家康は関ヶ原の戦いで何割くらい勝てると思ってたの?

神君家康による劣勢を挽回した大逆転勝利! というよりは老獪な家康が敵勢力を切り崩し、決戦前にほぼ勝利を確定させていた――というほうが史実に近そうです。もっともじっさいに小早川秀秋や吉川広家に対して寝返り工作をおこなったのは黒田長政らしいので戦…

【家康の謎】家康は関ヶ原の戦いに出陣する前に江戸で誰にどんな手紙を出してるの?

かつて秀吉が中国大返しの最中に大量に手紙を書き、信長生存の噂を流して撹乱していましたが、電話もネットもない時代において、手紙を出すこと、また手紙を駆使して情報戦を制することは大将の務めだったのでしょうね。そう考えると西軍には勝てるチャンス…

石川県立歴史博物館で開催中の特別展「御殿の美」を取材してきました

現在、石川県立歴史博物館で開催中の秋季特別展「御殿の美」を取材動画をアップしたので、その報告を兼ねてのレポート記事です。

【家康の謎】家康が直江状に激怒したのは本当?

直江状が実在したのかどうかについてはぼくも怪しいと思います。なにしろ当時、兼続とやり取りした相手は家康ではなく西笑承兌なので、中指立てて宣戦布告とも取れる内容を書くはずがないので。 ただ神指城跡に行くと、兼続はやる気満々だなと感じずにはいら…

【サイン本プレゼントあり】「おもしろすぎる家康の城図鑑」のご紹介

9月29日(金)に発売されたお城ガイドブック「おもしろすぎる家康の城図鑑」(KADOKAWA)を抽選で5名の方にプレゼントいたします!

【家康の謎】家康はなぜ石田三成を匿った? 七将襲撃事件は事実なのか?

七将襲撃事件は後世の創作だとして、多くの武将から殺したいほど嫌われている三成が最後に頼るのはさすが家康というストーリーを考えた人はすごい脚本家だなと思いました。機転が利く三成の有能さも表現できてますしね。

【家康の謎】家康の領地の石高はどのくらいあった?

ちなみに信長の直轄領は100万〜150万石ほど、秀吉は200万〜220万石ほどと言われますが、いずれも金山・銀山を押さえていたので実質的な収入はそれ以上あったようです。その点は家康も同様で、石高だけでなく鉱山や港を支配することが重要でした。

攻城団テレビで来年の大河ドラマ「光る君へ」の予習を兼ねた特別講義をしていただきました

来年の大河ドラマ「光る君へ」の予習を兼ねて、榎本先生に「藤原氏の誕生と道⻑・紫式部の時代」というテーマで、藤原氏の歴史と藤原道長や紫式部が生きた時代について教えていただきました。

【家康の謎】家康はなぜ朝鮮出兵に参加しなかったの?

近年では家康も石田三成も秀吉の渡海を諫止するために協力しあったと考えられているそうですね。むしろ代わりに自ら渡海した三成の責任感や覚悟がすごいなと感じます。三成はほんとに優秀な人だと思いますが、こういう裏方の仕事ってなかなか評価されないん…

城葱さんの「城もなか」道中記【福山城編】

「城もなか」を求めて全国を飛び回る城葱さんが今回向かったのは広島県の福山城。昨年リニューアルしたばかりなのでこれから訪問を計画されている方も多いと思いますが、ぜひお土産には城もなかを。おいしそうな写真とあわせてじっくり楽しんでください!!

【家康の謎】家康が関東に移ったときの江戸はどんな感じだった?

太田道灌が本拠にして、その後は北条氏の支配下にあった江戸の地が発展していないわけないのですが、近年まで寒村だと信じられてきたというのはおもしろい話ですし、まだまだ誤解されたままの歴史があるのでしょうね。

【家康の謎】家康はなぜ五大老の筆頭に選ばれたの?

そもそも五大老(五人の衆)は秀吉の死の直前に制度化されたもので、そのメンツも秀次事件後に連署したメンバーでした。当時は小早川隆景が5人に入っており、彼の死後に上杉景勝が加わっています。 秀吉は家康と利家を特段重視していたようで、ふたりが死去…

【家康の謎】家康はどうして関東に行かされたの?

家康が入封した江戸は寒村だったという説は現在完全に否定されていますが、それでも土地との結びつきが強かった徳川家臣団にとっては厳しい処置だったと思います。秀吉は井伊直政や本多忠勝などの領内配置についても細かく指示を出したそうで、家康にとって…

【家康の謎】三河譜代ってなに?

徳川家臣団において古参が幅を利かせる、みたいなことがどれほどあったのかはわかりませんが、井伊直政が四天王に数えられるほどの扱いを受けたことを見ても(寵童だったかはさておき)それなりに実力主義が浸透していたようにも思えます。むしろ家臣団が巨…

【家康の謎】家康はなぜ上田城の戦いで自ら出陣しなかったのか?

表裏比興の者として知られる真田昌幸に徳川軍は敗退します。だったら家康自ら指揮をとり、上田城を攻略すれば勝てたのではと思うのですが、状況がそれを許さなかったということでしょうか。ここで家康が出陣していれば歴史は変わったと思うんですけどね(家…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】読者からの質問とその回答

連載中からたくさんの質問が届きましたので、時田学芸員に回答していただきました。ぜんぶで18000字におよぶ、読み応えたっぷりの質疑応答となっていますので、ぜひお読みください!

【家康の謎】家康はなぜ石川数正に出奔されたのか

まさに右腕として家康を支えてきた石川数正の出奔は、この連載でも最高レベルの謎のひとつだと思います。交渉役が板挟みになって味方からも責められ(結果的に)敵方に走るという構図はのちの片桐且元に似てますね。

城葱さんの「城もなか」道中記【九州編】

「城もなか」を求めて全国を飛び回る城葱さんが今回向かったのは九州。メジャーなお城だけでなく、天ヶ城や岸岳城といったお城へ足を向かわせるのも城もなかの引力ですね。おいしそうな写真とあわせてじっくり楽しんでください!!

【家康の謎】家康は武術の達人だったの?

徳川家康は学問のみならず、武術においても達人レベルだったそうです。身体を動かすというちがいはあれど、多くの師匠に師事して学び、身につけるという点ではどちらも共通しているのかもしれませんね。 神君として盛られたエピソードも多そうですが、家康と…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】5.おわりに

この連載もついに最終回です。ぼくは毎回「戸切地陣屋すごい!」「戸切地陣屋に行きたい!」と思いながら読んできましたが、みなさんはいかがだったでしょうか。 質問や感想もぜひお寄せください!

攻城団テレビで「家康はなぜ名字を松平から徳川に変えたのか」という話をしました

今回は「戦国大名はなぜ名字を変えるのか」について榎本先生に教えていただきました。松平から徳川に改姓した家康だけじゃなく、上杉謙信や明智光秀など名字を変えた戦国大名・戦国武将は多いですよね。

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】4.「早すぎた」洋式軍学理論のゆくえ-戸切地陣屋、そして「日本の稜堡式城郭・堡塁」のその後-

西洋の築城術を学んだ英才・藤原主馬によって築かれた〈日本初の星形城郭〉戸切地陣屋でしたが、最先端の理論を誰もが理解できるわけもなく、教本を無視した改変がおこなわれます。 急速な改革が失敗するのはよくあることですが、国家存亡の危機を前にゆっく…

フィードバックのお願い

攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック

読者投稿欄

いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する