いよいよ大河ドラマ『どうする家康』でも始まる天下分け目の決戦、関ヶ原の戦い。
そのきっかけとなったのが家康による会津・上杉家討伐のための出陣であり、ひいてはその呼び水となったとされる「直江状」である。
そもそもの始まりは、家康が五大老のひとり、上杉景勝にかけた謀反疑惑――「新しく城を築いたり、浪人を召し抱えたりしているのは、豊臣政権に逆らおうとしているのではないか」という主張であった。そこで家康は「誓詞を出せ」「弁明するために上洛せよ」と上杉家に要求した。
この疑惑に対処する立場にあったのが、上杉家の重臣・直江兼続である。
彼は後世に「直江状」として知られる一通の手紙を認め、家康に送った。それを読んだ家康は激怒したという。なぜなら、直江状において兼続は家康の要求を完全に拒否し、「武具を整備したり道を整えたりしているのは武士・統治者として当然のことです」など自分たちの立場を堂々と書き連ねた上で、「家康様あるいは秀忠様がやって来られるのであれば準備を整えて待っています」とまで書いた。
これはつまり、攻めてくるなら迎え撃つ、という宣戦布告に相応しい言葉だったのである。
直江状を読んだ家康は上杉家を討つべく諸大名に呼びかけて会津へ出陣する。家康が留守にした大坂では毛利輝元・石田三成が挙兵し、ここに関ヶ原の戦いの幕が上がる――というのが通説だ。
さて、関ヶ原の戦いを語るにあたって重要な小道具であるこの直江状について、「実は偽書である」という説がある。
なにしろ直江状は実物(原本)が存在しない。現在に伝わっているのは写しばかりである。しかも非常に読みやすく内容が整然と整った文章であり、それゆえに美文という印象を強く受ける一方で、「あまりにも綺麗にまとまりすぎているから、これは創作ではないか」とも感じてしまう。
また「兼続の書状として考えると不自然な文字や言葉が存在する」や「戦後、上杉家が責任を兼続に押し付ける過程で創作されたのではないか」などの指摘もあって、近年では直江状は偽書であると考える説が有力になっているようだ。
その意味では「家康が直江状に激怒した」という話自体も怪しいということになるだろう。その一方で、内容などから判断して直江状は本物だと主張する説も根強いことは書き添えておきたい。