己の死を前にして、家康はいくつかの遺言を残し、また辞世の句を書いて、死んでいったという。今回はその「家康が残した言葉」群をまとめて紹介しよう。
この時代、武士には辞世の句を詠む、つまり人生の最期に俳句を詠んで残すという習慣があった。最期なのだから一句のはずなのだが、なぜか何句も残っている人がいて、家康もその中のひとりだ。
まずひとつは「嬉やと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空」――再び目を覚ますことができて嬉しい。なぜ嬉しいのかと言えば、最期の眠りだと覚悟していたからだ。だったらもう一眠りしてみようか、とも思える。この世で見る夢は、夜明けに見る空のような鮮やかさであるなあ。
こちらはいかにも死を覚悟した人、やるべきことを全てやり尽くした人らしい、爽やかな句である。
一方、もうひとつの句には当時の武家社会の事情が透けて見える。「先にゆき 跡に残るも 同じ事 つれて行ぬを 別とぞ思ふ」――先にあの世へ行くのも、後から行くのも、変わりがない。私にとっての別れとは、誰も連れて行かないことだ。
連れて行かない、というのは殉死の巻き添えにしない、ということである。主君と深い関係を結んだ家臣は、主君が死ねば自ら腹を切って殉死をするという価値観があった。しかし戦乱の時代ならともかく、平和な時代に有能な家臣に後追い自殺をされたら困る。だから殉死などするな、と家康は言っているわけだ。
最期に残す言葉は辞世の句だけではない。家康は遺言も残していたと伝わる。
「家康の遺言」といえば有名なのが「人の一生は重荷を背負って遠くへ行くようなもの」で始まる一連の文章だ。これは東照宮に伝わる文章で、「急ぐな、耐えろ、我慢しろ、欲しがるな、他人を責めるな、勝ちばかりを求めるな……」と、ひたすらに己を律することを説いている。「忍耐の人」「律儀の人」という家康のパブリックイメージに相応しい遺言だと言える。
しかし、近年の研究では家康の実際の遺言ではなく、のちに創作されたものだと考えられるようになっている。
他にも「死を悟った家康が遺言を伝えた」という話はいくつか残っている。
例えば、病床に諸大名を呼び寄せると、まず「私が死んだとしても、秀忠がいるから天下のことは安心している」と語った、という。これだけなら単に息子への信頼を吐露しただけだが、話はここでは終わらない。
「もし将軍が民を苦しめる政治をしたなら誰でもいいから取って代わるべきだ」というのである。その理由は「天下は一人の天下ではない。天下は天下の天下なのだ」――さすが天下人、遺言もスケールがデカい。
あまりにもできすぎているので後世の創作の匂いがしなくもないが、家康のパブリックイメージを教えてくれるエピソードではある。
では、実際に記録として残っている、家康の遺言はどんなものだったのか。
亡くなるだいたい2週間前の4月4日、家康がブレーンの金地院崇伝に以下のように伝えた、という記録が残っている。
曰く、「遺体は駿河の久能山へ」「葬儀は江戸の増上寺で」「位牌は三河の大樹寺へ」「一周忌が終わったら、下野の日光に小さなお堂をたて、関八州の鎮守にする」――残念ながら、あまりドラマチックなものではなく、伝えているのは自分の死後処理ばかりである。
やはり現実的にはこんなところなのだろう。