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【家康の謎】家康はなぜ江戸に幕府を開いたの?

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榎本秋の家康の謎

家康はなぜ幕府を開く場所、己の本拠地を江戸に定めたのか。
室町幕府に倣って京都に移ったり、豊臣政権の大坂を乗っ取るという選択肢を選ばなかったのはなぜだろうか。そこに明確な理由はあったのだろうか。
この問いかけに対する一番シンプルな答えは、「そもそも都市としての江戸がすでにそれなりに発展していたから」であろう。自分の本拠地を十分に発展させていたなら、わざわざ他の天下人が開いた都市を再利用する必要がない、というのは合理的な考え方である。

家康が東海地方から移ってきてそろそろ10年くらい。関ヶ原の戦い頃の江戸の人口は6万人程度であったらしい。
京都は同時期に30万から40万、大坂は20万人というから、人口ではまだまだ劣る。しかし、以前にこの連載でも紹介した通り江戸は関東・東国における交通の要所であり、また海の埋立・山の切り崩しによって都市を拡張する余地は十分にあった。
家康が「わざわざ京都・大坂へ移らなくとも、江戸を幕府の本拠地として拡大すれば良い」と考えた可能性は小さくない。

歴史書の類を調べてみても、「どうして関東に入った家康は江戸を本拠地に定めたのか」という問いは見出せても、「どうして家康は江戸に幕府を開いたのか」という問いは見出せない。となると、「すでに家康は江戸を本拠地にしていたから」が自明の理であるからではないか。
とはいえ、この時点の江戸が京都・大坂に及ばない程度の地方都市だったのは間違いない。例えば家康は二条城を築いているが、これを拠点に京都に定着し、室町幕府のような、京都の幕府として徳川家の政権を作る道はなかったのか。

この疑問に対するヒントになるかもしれない、一つの説がある。
それは「二重公儀体制説」と呼ばれるもので、「関ヶ原の戦いの後も豊臣政権は一定の権威を持って残っており、東国の大名に支持される徳川政権(江戸幕府)と、西国の大名に支持される豊臣政権が並列して存在していた」という考え方である。
はっきりとした証拠がないために信ぴょう性をどのくらいと見るかは難しいが、非常に興味深い説だ。

そして、この二重公儀体制説に基づくなら、家康があらためて江戸を本拠地に選んだ理由が明確になる。
つまり、大坂・京都は旧主君である豊臣家の縄張りであって、新しく天下人を宣言するにはどうにも具合が悪い。いざ徳川と豊臣の決戦だということになっても、この時点ではまだ豊臣方が多く徳川の影響をさほど受けていない西国大名たちの方が、先に京都・大坂へ駆けつけてくることだろう。
だから家康は江戸を選んだのではないかと思うのだが、いかがだろうか?

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