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【東美濃の戦国史】〈番外編〉古田織部と織部焼

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美濃出身の戦国武将はたくさんいますが、千利休の弟子として茶道の世界で大成した大名茶人・古田織部が造らせたとされる茶器が「織部焼」です。この織部焼は美濃焼の一種で、東美濃の西部で焼かれていたそうですよ。

東美濃と窯業

美濃国は古くから窯業、つまり土や石を原料に形を作り、窯の中で焼いて、土器や陶器などを生産する産業が盛んであった。
そもそもの始まりは古墳時代に今の岐阜市や各務原市で須恵器(朝鮮半島に由来する陶器)が焼かれたことにあるようだ。やがて平安時代の中頃には多治見市に窯が築かれ、東美濃にも窯業が広がっていった。

このような美濃国で生産された陶磁器をひっくるめて「美濃焼(みのやき)」と呼ぶ。
より狭い意味では室町時代の終わり頃、つまり戦国時代に始まった瀬戸黒(せとぐろ)、黄瀬戸(きせと)、志野焼(しのやき)、そして本項の主題である織部焼(おりべやき)などの陶磁器を美濃焼と呼ぶ。

「へうげもの」古田織部

この織部焼の名は、とある人名に由来している。
「古田織部(ふるた おりべ)」。アニメ化もされた人気漫画、山田芳裕『へうげもの』(講談社)の主人公としてご存知の人も多いのではないか。「織部」は「織部正(おりべのかみ)」という官職を得ていたことからの通称で、諱は初めに景安(かげやす)、後に重然(しげなり)。通称は佐介。この項では「古田織部」あるいは「織部」と呼ぶ。

古田氏はもともと美濃の国衆で、だから織部も美濃の人だと考えられる(尾張出身という説も)。
尾張の織田信長が美濃を攻め取った時に味方したとも、美濃が織田氏のものになった際にその支配下に入ったともいう。ともあれ、以後の古田織部は織田氏傘下の武将として働き、信長が死ぬと羽柴(豊臣)秀吉に仕えた。

天正13年(1585年)頃、その豊臣政権において「織部正」の官職をもらうとともに、山城国西岡3万5千石を与えられ、大名となったとするのが通説である。
この所領は息子に譲って自らは隠居するも、慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」で常陸の佐竹義宣(さたけ よしのぶ)を東軍(徳川家康)側へ帰属させたことを評価され、隠居料3千石に7千石追加されて再び大名になった。
しかし、のちの「大坂の陣」において豊臣側との内通と謀反を疑われ、江戸幕府により切腹を申しつけられてその生涯を閉じた。

——以上が武士・大名としての古田織部の経歴である。しかし、彼の名声を確立したのは戦場や政治での活躍ではなかった。
織部は茶人、つまり茶の湯を工夫した人として大いに名前を高めた人だったのである。そもそも彼の主人であった織田信長は茶の湯を重視したことで有名だ。織田政権では茶会に用いる名物茶器を所有したり、茶会を開く権利を持つことが重要なステータスであった。
御多分に洩れず織部も茶の湯に興味を持ち、侘び茶の創始者として知られる茶人・千利休に接近。彼から茶道を学んで、その高弟になる。

信長の実質的な後継者であった秀吉も茶の湯に注目して利休を厚遇したものの、やがて両者の関係は悪化。ついに利休を死へ追いやってしまった。
そして利休死後の豊臣政権、さらには徳川政権(江戸幕府)で茶の湯の第一人者と見なされたのが彼、古田織部であったわけだ。
織部の茶の湯は師の利休が侘び寂びを追求したのに対して、明るく、大胆で、独創的であったとされる。漫画のタイトルにもなった「へうげもの(ひょうげもの)」(ひょうきん者、おどけ者)は彼の人格に対する評価であり、またその芸術的態度を指した言葉でもあったと考えられる。

自由闊達な織部焼

その織部の茶道における思想・嗜好を反映しているとされ、そのために彼の名がつけられたのが「織部焼」である。
茶会の席で用いるための茶壷や茶碗などを、茶の名人が自分好みのもので揃えるのはある意味当然のことであろう(なお、いわゆる織部焼が織部の指示や依頼などを受けて作られたかというと、証拠などの点で微妙であるようだが)。

(左)織部脚付角鉢 東京国立博物館(右)織部手付水注 メトロポリタン美術館

織部焼は東美濃の西部で焼かれ、茶碗や茶入のようなお茶の道具に加えて、食器や生活用具など多種多様なものが作られた。製造技術としては、九州の唐津焼で用いられていた連房式登窯(れんぼうしきのぼりがま)が用いられたことが特筆すべきだろう。
そして、何よりもその最大の特徴は形にある。従来の焼き物が円を基本としたのに対して、織部焼では自由な形が尊ばれた。装飾の文様についても、非常に破天荒なものであった。
そこには、従来良いとされた完璧な形の茶器を好まず、欠けたり歪んだりした形のものを愛した織部の「へうげもの」的精神があったとされるからこそ、これらの焼き物は「織部焼」と呼ばれたわけだ。

なお、このような独創的なあり方が織部焼にはじまるかというとそうでもないようだ。
先行する志野焼には既にある程度同種の傾向が現れている、また、近年の研究では当時の京都で焼かれていた「織部写し」と呼ばれる織部焼のコピーと見なされていた焼き物が、実は織部焼に先行していたのではないかとも言われるようになっている。織豊時代の窯業・陶芸はさまざまな才能が影響を与えながら発展していたのだろう。中でも織部の芸術性と存在感は大きかったはずだ。

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