地域の成り立ち
御嵩町(みたけちょう)は東濃地方の古墳集中地帯ともいうべき可児郡に属する町だ。
ただ、この可児郡からは可児市が独立し、一部は多治見市や加茂郡八百津町になり、さらに近年になって兼山町が可児市へ入ったので、現在の可児郡は御嵩町のみになっている。
シンボルとして「御嵩富士」という山がある。また、明治から昭和前期にかけては亜炭(石炭の一種)の採掘が盛んで、鉱山の町としても栄えた。
戦国時代の御嵩町
美濃守護・土岐氏の家宰・守護代として活躍した斎藤妙椿(さいとう みょうちん)は、応仁の乱でも主君に働きかけて西軍に味方させるなど、室町時代から戦国時代にかけて名を残した人物である。
彼の隠居所が御嵩町にあった顔戸城(ごうどじょう)だ。
他にも、戦国時代のこの地域には小栗(おぐり)氏や小倉(おぐら)氏といった武家があったようだが、武田信玄(たけだ しんげん)の侵攻の際に敗れ、あるいは降伏してその支配下に入っている。
その後は織田(おだ)政権によって支配され、「本能寺の変」後は森(もり)氏が統治した。森氏が移ると岩村城の田丸(たまる)氏の支配下に入っている。
江戸時代の御嵩町
江戸時代、御嵩町を含む可児郡全体の半分は尾張藩領であった。
他は木曽衆や旗本の所領に占められていたが、次第に尾張藩・幕府領が拡大していく。御嵩町だけで考えるとこの割合はさらに極端で、89%が尾張藩領だった。
江戸時代初期に中山道が整備され、御嵩町には御嵩宿と伏見宿のふたつの宿が開かれた。どちらも小規模な宿場町だったが、交通拠点としての意味合いは小さくなかったようだ。
御嵩町の代表的な城
御嵩城は権現山城とも呼ぶ。戦国時代、この城には小栗信濃守(おぐり しなののかみ)なる城主がいたとされるが、武田信玄による侵攻で軍門に下った、あるいは滅んだものと考えられる。
顔戸城はおそらく信濃の勢力の侵攻に備えて守りを固められた城であるとともに、前述の通り斎藤妙椿が隠居した際の拠点として知られている。
上恵土城(かみえどじょう)は15世紀の末頃には荏土城(えどじょう)と呼ばれていたが、のちにこの名で呼ばれるようになった。本能寺の変の後、森長可(ながよし)が金山城にいたところ、時の城主・長谷川五郎右衛門(はせがわ ごろうえもん)が長可の家臣と計らって金山城を攻めようとしたが、逆に察知されて反撃を受け、城を落とされている。