地域の成り立ち
現在の土岐市(ときし)は土岐津町・下石町・妻木町・駄知町・泉町と鶴里村・曽木村・肥田村の5町3村が合併してできた自治体だ。
「土岐」地名の初見については、日本最古の歴史書である『日本書紀』天武天皇5年(676年)の条に「礪杵(とき)郡」を見出すことができる(当時の呼び名は「礪杵評(ときのこおり)」)。なお、この言葉で示される地域は土岐市だけでなく、土岐川より南の多治見市、瑞浪市、恵那市と中津川市の多く、という広大な一帯だったようだ。
天武(てんむ)天皇の子で謀反を疑われて最後には自殺した大津皇子(おおつのみこ)の事件の際、伊豆に配流となった礪杵道作(ときの みちつくり)なる人物がいたと記録されており、この人はおそらく礪杵の有力豪族であったろうと考えられる。
戦国時代の土岐市
以前の記事でも紹介したとおり、土岐は中世を通して長く美濃守護を務めた土岐(とき)氏との結び付きが強い。当初の本拠である土岐館は土岐津町にあった。
ただ、土岐氏の勢力の中心は現在の瑞浪市の土岐町にあったようなので、詳しくは瑞浪市の項で紹介する。
さて、この地域では妻木城主として土岐一族の明智(あけち)氏が長く勢力を誇っていた。のちに織田信長(おだ のぶなが)の重臣として活躍し、最後には本能寺の変で信長を死へ追いやってしまう明智光秀(みつひで)はこの家の生まれとされる。
その明智氏に代わって妻木城主となるのが明智氏から分かれた妻木(つまぎ)氏だが、その正確な時期はよくわからない。永禄2年(1559年)には妻木廣忠(広忠。ひろただ)が城主であった可能性が高いようだ。
この廣忠の姪(娘とも)が煕子(ひろこ)といい、明智光秀の妻になった女性である。彼女の伝説としては、夫が連歌の会を開こうとしたがお金がなく困っていたところ、自分の髪の毛を切ってその足しにしようとした、という話がある。これを知った江戸時代の俳人・松尾芭蕉(まつお ばしょう)は、「月さびよ明智が妻の咄(話)しせん」と一句詠んでいる。
本能寺の変の際、妻木廣忠はその縁から光秀に味方したため、最後は自刃して果てている。
妻木氏自体は廣忠の孫の家頼(いえより。あるいは頼忠(よりただ))が跡を継ぎ、東美濃を制圧した森(もり)氏の支配下に入った。
江戸時代の土岐市
関ヶ原の戦いにおいては、家頼が当時の東美濃諸将の中では唯一東軍に味方し、森氏時代に追いやられていた領主たちとともに西軍方の領主たちを打倒。旗本として江戸時代を迎えることとなる。
この時になぜ家頼が家康に味方する道を選んだかはわからないが、西軍方についた領主たちの多くは石田三成(いしだ みつなり)との縁からその方針を決めたようなので、家頼にはその縁がなかったから、ということかもしれない。
その妻木氏(妻木家)も、万治元年(1658年)と比較的早い時期に後継者がないまま当主が死んだため、御家断絶。以後、妻木家の所領は幕府領となった。
ただ、当主の弟が妻木村上郷に五百余石の所領を持つ旗本として存続を許されており、この上郷妻木氏ほかいくつかの血筋が残った。
この地域には中山道(東山道)が通っており、宿場町としては大湫宿と細久手宿の2つが存在している。
土岐市の代表的な城
妻木城は妻木町の城山と呼ばれる山に建てられた城である。
文和年間(1352年~1356年)に築かれたと伝わるが、発掘調査によると城としての機能を働かせ始めたのはそれより後の15世紀中盤から後半であるとも。妻木家の断絶とともにこの城も廃城になった。