攻城団ブログ

日本の歴史をまるごと楽しむためのブログ。ここでしか読めない記事ばかりです。

攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

【東美濃の戦国史】東美濃の戦国時代

こちらもご覧ください!(広告掲載のご案内

東美濃は信濃や三河に接しているため戦略的にも大変重要なエリアでした。そこでまずは東美濃の歴史をおさらいしましょう。今週は「東美濃の戦国時代」として関ヶ原の戦いの直前までを解説いただきます。

美濃守護・土岐氏

戦国時代が始まった頃、美濃を支配する武家といえば美濃守護・土岐氏(ときし)だった。実はこの土岐氏はもともと東美濃地域を拠点としていたのをご存知だろうか?
平安時代の終わり頃、今も岐阜県土岐市として名前が残る美濃国土岐郡(ときぐん)に、美濃源氏(清和源氏)の光衡(みつひら)という人が住み着き、「土岐氏」を名乗ったのが始まりとされる。

鎌倉時代、土岐氏は有力御家人として、当主の光定(みつさだ=光衡の孫)が執権の娘を妻にするなど厚遇された。
しかし、その子の頼貞(よりさだ)は幕府の崩壊および南北朝の動乱において北朝・足利氏に味方し、活躍。美濃守護の職を与えられている。その子の頼遠(よりとお)の代になって、従来の土岐郡から厚見郡(あつみぐん)へ移り、以後土岐氏の軸足は東美濃から移ることとなったわけだ。

東美濃の主役・遠山氏

その土岐氏に代わって東美濃で存在感を発揮するようになったのが、遠山氏(とおやまし)である。
平安時代を代表する武人のひとり、藤原利仁(ふじわら の としひと)の末裔を称する一族だ。この人は鎮守府将軍を務め、またさまざまな物語に名を残したことで知られ、特に有名なのが『今昔物語集』に収録され、芥川龍之介も小説にした「芋粥」の物語だ。
利仁の子孫である加藤景廉(かとう かげかど)は源頼朝のもとで活躍し、美濃国恵那郡(えなぐん)遠山荘(とおやまのしょう)をもらった。彼の血を引くものたちは東美濃へ広がり、遠山を名乗った、というわけだ。

遠山一族はいくつかに分かれ、戦国時代頃までに岩村(いわむら)・苗木(なえぎ)・明知神篦(あけちこうの)・阿木(安木、あぎ)・飯羽間(いいばま)・串原(櫛原、くしはら)・馬籠(まごめ)の七家(各名称は諸説あり)に分かれ、それぞれの城に拠って勢力を誇った。これがいわゆる「遠山七家(とおやましちけ)※七遠山や遠山七頭とも」である。
特に岩村遠山氏、明知遠山氏、苗木遠山氏の三家は「遠山三頭(とおやまさんとう)※三遠山とも」と呼び、一族を代表する有力武家であった。特に岩村遠山が宗家であったようだ。
この遠山一族は美濃守護である土岐氏の従属下にあったが、その土岐氏が衰えると取って代わった斎藤氏に、と従う先を変えた。またその斎藤氏が滅びると尾張の織田氏とも関係を作っていった。

では戦国時代の遠山氏が安泰であったかというとそうではない。
戦国時代初期には信濃の小笠原氏が東美濃へ攻め込んでおり、文明から天文初期にかけての数十年間、恵那郡から土岐郡にかけての地域は小笠原氏に支配されていた。
また、天文年間後期になると今度は甲斐の武田信玄が信濃を支配し、さらに東美濃にまで手を伸ばそうとしていた。遠山一族もこの圧力には抵抗しきれず、苗木・岩村の両遠山は武田氏の支配下に入ることとなる。

しかし前述のように美濃の支配者である斎藤(滅亡後は織田)とも関係は続いていた。
時期はよくわからないが、岩村遠山氏の次期当主である遠山景任(とおやま かげとう)の妻に、織田信長の叔母にあたる「おつやの方」を迎えるなど、両属的な関係を保とうとしていた節もある。織田・武田はしばらくの間同盟関係にあったので、遠山氏はその両者の間を取り持つ立場にあったのだろう。
一方で駿河・遠江の大名で三河にも手を伸ばしていた今川氏とは争うなど、周辺を有力勢力に囲まれてかなり苦しい立場にあった。

岩村遠山氏の滅亡

遠山氏の立場が大きく変わるきっかけになったのは、元亀3年(1572年)景任の病死であった。
これを機に信長は遠山一族、ひいては東美濃を自らの支配下に置こうと考え、自らの子を後継者として送り込むと共に、未亡人のおつやの方を実質的な岩村城主に据えてしまった。
これに対して、武田信玄は駿河や三河へ進出するに際して、東美濃には家臣の秋山虎繁(あきやま とらしげ)らを派遣する。

おつやの方らは岩村城にこもって抵抗するが、持ち堪えきれなかった。最終的に、秋山信繁とおつやの方が結婚するという形で岩村城が武田方に降伏し、戦いは終わった。
とはいえ、遠山一族が完全に武田方についたわけではなく、苗木遠山氏は織田方に残ったようだ。
その後、天正3年(1575年)に「長篠の戦い」で武田勝頼(病死した信玄の後継者)を打ち破った信長は、東美濃を奪還するべく自らの息子である織田信忠を送り込んで岩村城を攻めさせた。
今度は状況が逆で、武田方の支援が望めない信繁・おつやの方ら岩村遠山氏は持ち堪えられない。結局降伏したものの、2人は信長により処刑された、という。

森氏の下での安定

こうして東美濃は織田氏の支配下に入ったが、さらなるアクシデントが起きてしまう。
天正10年(1582年)、織田信長が「本能寺の変」により亡くなってしまうのである。結果として織田氏支配下の各地は混乱状態に陥る。それは東美濃も例外ではなかった。

混乱する東美濃を統一したのは織田家臣の森長可(もり ながよし)であった。長可は遠山一族をはじめとする東美濃の諸将をあるいは打ち滅ぼし、あるいは降伏させ、または他所へ追いやることで、東美濃のほとんどをまとめあげることに成功する。
その長可は信長死後の織田氏の内部対立に際して羽柴(豊臣)秀吉についたため、東美濃もおおむね秀吉の勢力圏に組み込まれることとなった。

天正12年(1584年)、秀吉と徳川家康が争った「小牧・長久手の戦い」において長可は討ち死にする。
これを受け、かつて長可に東美濃から追い落とされた苗木遠山氏、明知遠山氏、小里氏(おりし)らといった国衆たちはかつての所領を取り戻すべく、森氏の支配下にあった東美濃へ攻撃を仕掛けるも、結局破れてしまった。
長可の後は秀吉の命により弟の森忠政(もり ただまさ)が継いだ。その後、関ヶ原の戦い直前の慶長5年(1600年)に信濃国川中島へ転封になるまで、森氏がこの地を統治した。

フィードバックのお願い

攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック

読者投稿欄

いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する