東美濃と関ヶ原の戦い
慶長13年(1600年)、当時の日本を統治していた豊臣政権はふたつに分かれて激しく争った。
最大の実力者である徳川家康(とくがわ いえやす)を中心とする東軍と、石田三成(いしだ みつなり)・毛利輝元(もうり てるもと)ら反家康派が集まった西軍だ。
両勢力は全国的に武力衝突を起こすとともに、その主力が美濃国関ヶ原で激突。最終的に東軍が勝利を果たした。この関ヶ原の戦いは当然、東美濃にも大きな影響を与えている。
前回の記事の最後で紹介した通り、関ヶ原の戦い直前に森氏は信濃川中島へ転封していった。
代わって岩村城には田丸直昌(たまる なおまさ。資料によっては「具忠」。北畠氏の庶流で、織田信雄や蒲生氏郷に仕えていた)が4万石で、苗木城には河尻直次(かわじりなおつぐ。あるいは秀長(ひでなが)。一時期岩村城主を務めた織田家臣・河尻秀隆の子)が1万石で、それぞれ入っている。
では、いよいよ関ヶ原の戦いが始まると、東美濃での戦いはいかに展開したのか。
東美濃においては苗木城主の河尻直次が西軍に味方する姿勢を見せていた。また、岩村城主の田丸直正は関ヶ原の戦いに先立つ形で行われた家康による上杉氏征伐には参戦したものの、石田三成の挙兵を聞くや離脱して西軍に参加している。
ただ、この2人はどちらも戦いの間、東美濃を留守にしたため、実際に東美濃で戦ったのは留守を守った家臣である。
対して、家康は苗木遠山の遠山友政(とおやま ともまさ)、明知遠山の遠山利景(とおやま としかげ)、小里光親(おり みつちか)といった、かつて東美濃を追われた武将たちをけしかけ、苗木城や岩村城を襲わせている。
また、妻木城主の妻木家頼(つまぎ いえより。資料によっては頼忠(よりただ))も東軍に味方した。
遠山友政は自らの旧領である苗木城に攻めかかり、これを落とした。また他の武将たちは田丸氏の軍勢と戦って破り、明知城や小里城といった本来の居城を奪還したうえで、岩村城を取り囲んだ。
この頃には関ヶ原で行われていた本戦も東軍の勝利に終わったため、防衛側も城を明け渡して脱出。東美濃でも戦いは終わったのである。
東美濃の領主たち
江戸時代の幕藩体制において、東美濃はその全体をなにがしかの国持大名・大藩が治めるというよりは、細かく分けられた土地をそれぞれの領主が治める形になっていた。
幕府領(天領)や旗本領、また隣接する大藩である尾張徳川家・尾張藩の所領に加えて、藩としては苗木藩と岩村藩があった。
苗木藩は関ヶ原の戦いで奮戦した遠山友政の遠山家の藩である。この藩は転封もなく、幕末までそのまま続いた。
ただしほとんどの藩がそうであったように、時代が経るごとに財政が苦しくなって倹約を始め、財政改善に努めた。しかし上手くいかず、幕末まで危機的状況が続いた。
また、幕末期には外様藩にもかかわらず藩主の友禄(ともよし)が若年寄になっている。しかしこのことは幕末の動乱が加速し、幕府が劣勢になると、苗木藩を「幕府につくか、朝廷(新政府)につくか」と難しい状況にも追い込んだものと思われる。
岩村藩は譜代大名の藩で、江戸時代前期までは松平一族の大給松平(おぎゅうまつだいら)家が治めていた。この家が転封で移ると、代わって丹羽(にわ)家が大名として入って数代を経たが、後述する事件によって処罰を受け、再び大給松平家の血筋が藩主を務めるようになった。
この丹羽家は織田家から追放されて徳川家に仕えた家だが、織田家重臣の丹羽長秀(にわ ながひで)とは別の一族だ。清和源氏・足利一族の一色(いっしき)氏から別れて丹羽を名乗っている。
5代藩主・丹羽氏音(にわ うじおと)は藩政改革を試みたものの、藩士および増税に苦しむ領民たちの反発が厳しく、頓挫している。しかもこの時改革を任せた人物を追放したところ、彼が幕府に訴えてその主張が認められてしまう。最終的に丹羽家は領地ほぼ半減・閉門の処罰を受けて東美濃を去ることになったのだった。
再び大給松平家が治めるようになった岩村藩のトピックとしては、まず8代将軍・吉宗(よしむね)の時代に当主の乗賢(のりかた)が若年寄・二の丸老中になり、さらに将軍が吉宗から家重(いえしげ)になった際には本丸の老中になって、という具合に幕政で活躍したことがある。
また、文政年間から天保年間にかけては特産物の開発を試みるなど藩政改革を行ったが、最終的には借金で継続不能になったり、改革の負担と折からの飢饉に耐えかねた庶民の反発を受けるなどして、失敗に終わっている。
幕末には藩主が松平一族であることから佐幕派の色合いが強い一方、学問が盛んであったことから尊皇の声も高く、やはり難しい立場にあった。
結局、苗木・岩村の両藩は大政奉還後に新政府への恭順を決め、東山道(中山道)を進んできた新政府軍の命令に基づいて行動している。
ほかに妻木家頼の妻木家が7500石の交代寄合として、遠山利景の明知遠山が6531石余りの旗本家として、小里光親の小里家も旗本家として、それぞれ残った。
東美濃と中山道
江戸時代の東美濃を語るにあたって欠かせないのが、中山道(民間では「中仙道」とも)である。
いわゆる五街道のひとつで、東海道と並んで江戸と京都を結ぶ重要な道であり続けた。この中山道六十九次(最後の二宿は東海道と重複)のうち、七宿が東美濃にある。
街道は多くのヒトやモノ、情報、文化を運び、東美濃を繁栄させた。
江戸を出発した旅人は最初の板橋宿(この頃、板橋は江戸ではなかった! 東海道の品川や甲州街道の新宿と似たポジションだ)から武蔵国、上野国、信濃国と道を進む。そして信濃国最後の宿場である馬籠宿(まごめじゅく。島崎藤村の生まれ故郷で『夜明け前』の舞台)から坂を下って一里半ほどで、美濃国最初の宿場・落合宿(おちあいじゅく)へ入る。
当然ここは東美濃最初の宿場でもある。玄関口として栄えたこの宿場町の本陣には、7代目市川団十郎から「タチの悪い雲介(駕籠を運ぶ人足)から守ってもらった」という礼状が残っており、その繁栄を知るよすがになっている。
そこからさらに西へ進むと、一里弱で中津川宿(なかつがわじゅく)だ。飛騨方面から三河方面へ抜けることができる飛騨街道や名古屋につながる下街道と中山道の結節点でもあり、非常に賑やかな宿場町であったという。
二里半進むと大井宿(おおいじゅく)で、下街道に加えて岩村街道・秋葉街道への接続があり、伊勢参り・善光寺参りの参拝者も通るなど、人の集まる栄えた街であった。
さらに三里で大湫宿(おおくてじゅく。大久手宿とも)、一里半で細久手宿(ほそくてじゅく)、三里で御嵩宿(みたけじゅく)、一里へ伏見宿(ふしみじゅく)にたどり着いて、その先の太田宿(おおたじゅく)はは今の美濃加茂市なので、いわゆる東美濃はここまでだ。
中津川や大井が江戸時代以前から存在して栄えた宿場であったのに対して、大湫・細久手・御嵩・伏見は江戸時代初期に開かれ、あるいは整備された宿場であった。宿場が少なくて不便であるということで大湫宿が作られ、しかしここと御嵩宿の間はまだまだ距離が長く、また起伏も厳しかったので、これは宿場町がもうひとつ必要、ということで細久手宿が作られたという。
御嵩宿は農業が中心で小商いをする人がいる程度のごく小規模な宿場町で、続く伏見宿はさらに小さく、東美濃の宿場町と一口に言ってもそのあり方はさまざまであったようだ。
伏見宿の場合は近くに兼山や新村湊といった、河川交通の要所でヒトやモノの集まる場所があるので、なかなか発展が難しいという事情もあった。