2019-10-01から1ヶ月間の記事一覧
伊達政宗の遅参(と白装束を着ての謝罪)についてはドラマチックではあるのですが、よく許されたもんだなあと。
伊達政宗の「撫で切り」には批判も多かったようですが、これをやってなかったら奥州統一はもっと苦戦していたかもしれませんね。
戦国時代、下剋上によって多くの大名が誕生し躍進する一方で、没落し滅亡する大名もたくさんいたわけですが、尼子氏の最後はほんとうに時代に翻弄された感じが強いですね。
信長の首があれば状況が変わっていた(味方する武将も多かった)はずという説もありますが、どうなんでしょうね。
「本能寺の変」の謎は明智光秀の犯行動機よりも、なぜ信長と信忠が同時にわずかな兵で京に滞在していたかですよね。まあだからこそ光秀は千載一遇の好機と見たわけでしょうけど。
小牧・長久手の戦いは、家康の戦術的勝利、秀吉の戦略的勝利といった評価がされることが多いのですが、根来衆や雑賀衆のほか、長宗我部元親や北条氏直を味方につけていた連合軍側にも戦略的勝利のチャンスはけっこうあったと思うんですけどね。
織田信長の勢力拡大ペースって序盤の尾張統一から美濃攻略あたりまではかなり時間がかかっていますよね。
「川中島の戦い」って激戦のイメージがありますが、そのほとんどはにらみあいだったそうですね。約12年におよぶこの合戦は山本勘助や武田信繁などの戦死者を出しながらも、武田信玄は着実に北信濃を征服していきました。
「手取川の戦い」は1万ちょいの軍勢の謙信が約5万の織田軍に圧勝したため「上杉に逢うては織田も手取川 はねる謙信逃げるとぶ長(信長)」という落首が残されているのですが、信長は参戦していないのでちょっとかわいそう。
織田信広は安祥城を任されるだけでなく、「第二次小豆坂の戦い」では先鋒をつとめるなど有能な武将なんですよね。
合戦というものはいろいろな因果の積み重ねで起きるものですが、この「人取橋の戦い」も畠山義継が伊達輝宗を拉致したからで、しかしその拉致事件も伊達政宗が義継と姻戚関係にあった大内定綱を攻めたからで……とつながっていきますね。
全国のお城めぐりとあわせて御朱印集めを楽しんでらっしゃる団員の方へのインタビュー企画、今回はぽにょまる姫さんにお話を伺いました。
国人衆というのは自分たちの所領を安堵してくれる強い大名を求めて簡単に寝返るわけですが、だからこそ敵を撃退することで再度の寝返りも期待できるわけですね。
全国のお城めぐりとあわせて御朱印集めを楽しんでらっしゃる団員の方へのインタビュー企画、今回は花しょうぶさんにお話を伺いました。
「備中高松城の戦い」は「本能寺の変」が起きていなければどういう結末になっていたのか気になりますね。あるいは毛利方が先に、もしくは同時に信長横死の情報を入手できていればどんな展開になっていたのか。
全国のお城めぐりとあわせて御朱印集めを楽しんでらっしゃる団員の方へのインタビュー企画、初回はzenkoさんにお話を伺いました。
「長篠の戦い」は徳川vs武田でありあくまでも織田は援軍であること、武田勝頼は敗れはしたもののこのまま没落したわけじゃなく、敗戦後に武田家の最大版図を築いたことも知っておきたいですね。
御朱印集めをするにあたり、まずは御朱印の基本について調べてみました。基本の基本ですけれど、まずはこのくらいの知識からはじめてみませんか。
小田原攻めは秀吉陣営にかなりの士気低下が見られたり、家康らが離反するリスクもあったりで、じつはけっこうギリギリの勝利だったという話もありますね。
織田信長の勝率はそれほど高くはないのですが、なかでも手痛い敗戦のひとつがこの「金ヶ崎の戦い」ですね。
戦国屈指の謀将として知られる毛利元就が陶晴賢を破った「厳島の戦い」はその入念な準備と緻密な仕掛けから、榎本先生はその謀略の最高傑作と解説しています。
「桶狭間の戦い」については諸説ありますが、織田信長が圧倒的不利な状況にもかかわらず今川義元に勝利したということは事実です。その要因となったのが事前の準備とリアルタイムな情報分析にあるというのは現代にも通じる話ですね。
この秋に特別公開されたり、ライトアップが予定されている寺院のうち、歴史好き・戦国武将好きのみなさんが気になるだろうところを独断と偏見でピックアップしました!
徳川家康にとって「大坂の陣」は「関ヶ原の戦い」以上に盤石な体制と準備でのぞんだものの、薄氷を踏む思いでの勝利でした。
「関ヶ原の戦い」は戦国時代を象徴する合戦でありながら、わずか数時間で終了したという点でいろいろと疑問点も多い合戦ですね。