合戦に勝つために必要な要素もいろいろあるが、内部統制がきちんと取れているかどうか、敵の情報が得られているかどうかは、戦いの趨勢(すうせい)を決める非常に重要な条件といえる。
これがうまくいかなければ、戦国時代末期を席巻した織田軍団さえも一敗地にまみれることがある。
1577年(天正5年)の「手取川の戦い」こそは、まさにそんな戦いであった。
戦いのきっかけは、北陸で大きな力を誇っていた能登七尾城の畠山氏内部で起きた内紛である。
この時期には畠山氏自身は力を失い、有力家臣団が勢力争いを繰り広げ、一方が織田氏を頼れば、もう一方は越後の上杉謙信を頼る、という具合だった。
そして、謙信が動く。
七尾城内の上杉派家臣団の要請を受け、七尾城を包囲したのである。
これに対し、信長はもともと北陸方面軍として配置していた柴田勝家らの軍勢を動かしたが、相手は「軍神」と称される上杉謙信だけに、それだけでは不安だったらしい。
羽柴秀吉、滝川一益、丹羽長秀といった有力家臣たちを援軍として差し向け、総計3万とされる大軍を編成させた。
ところが、この織田オールスターともいうべき軍団は、ふたつの問題を抱えていた。
ひとつは一部武将同士の仲が悪かったことで、総指揮官である勝家との意見対立の末に秀吉が勝手に軍を引き上げてしまうアクシデントが起きた。
もうひとつは、七尾城の様子がまったくわからなかったことだ。
能登の一向一揆衆が上杉側に付いて情報を遮断したことが原因であるらしい。
「これでは戦えない」と織田軍は一時撤退を選んだのだが、ときすでに遅かった。
手取川を渡ろうとしたところ、七尾城を攻め落とした上杉軍に背後から襲われ、大損害を受けてしまった。
上杉軍は深追いせずにさっさと引き上げたので、織田氏の北陸方面軍が壊滅することはなかったが、手痛い敗戦といえた。
この戦いの教訓は、「環境が整えられないなら無理をするな」ということ。
内憂外患の状況では傷口が拡大する前に身を引けば、損害を抑えられる可能性も大きい。
その決断の速度で結果が左右されるのは、今も昔も変わらないのだ。