甲斐の虎・武田信玄と越後の龍・上杉謙信が激突した「川中島の戦い」といえば、戦国時代を代表する合戦のひとつである。
しかし、これがそもそもどんなきっかけから始まったのか、どのような結果をもたらしたのかはよく知らない人が多いのではないだろうか。
「信州川中嶋合戦之図」(勝川春亭、模写:歌川広重)
始まりは信玄が中小の国人たちが割拠する信濃へ侵攻したことだった。
その中で大きく立ちはだかったのは北信濃の雄・村上義清であったが、結局は敗れて領地を失い、越後の上杉謙信を頼ることになる。
義清に助けを求められた謙信は、自国の防衛のためにも信濃の情勢を安定させようと、12年にわたって5度出兵することになった。
この戦いが主に川中島の周辺で行われたので、「川中島の戦い」と総称されるようになったのである。
しかし、これらの戦いは基本的には小競り合いやにらみ合いに終始し、決定的な激突にはほとんどつながらなかった。
決戦は双方に大きな損害が出るので、攻めるほうとしては「攻めた」という実績を作れればよし、守るほうとしても好機を伺い、相手が兵糧不足や士気の崩壊で引き上げてくれればよし、という思惑があったのではないだろうか。
そんな中で激戦として知られるのが4度目、「八幡原の戦い」として知られるものである。
このとき、1万の兵で山に立てこもった謙信に対し、信玄は2万の兵をふたつに分けて挟み撃ちしようとした、とされる。
別働隊が山上の上杉軍を攻めて平地に追い落とし、そこに待ち構えていた信玄率いる本隊が打撃を与える、という具合だ。
ところが、これはうまくいかなかった。
策を察知した謙信が先に山を下り、信玄の本隊を奇襲したからだ。
あわてて追いかけた別働隊が合流したために戦い自体は互角の結果に終わったが、両軍ともに数千人の死者を出して、まれに見る激戦となった。
結局、5度の戦いを経ても謙信はほとんど得るものがなく、逆に信玄はこれらの戦いの間に信濃のほとんどを自らの支配下に組み込んでしまった。
それぞれの戦い自体は痛み分けであっても、総括すれば信玄の勝ち、というべきであろう。
現代の戦場を生きるビジネスマン諸氏も、川中島の戦訓を生かして、局面ごとの勝利ではなく、長期的な視点での、あるいは自身の人生を総括しての勝利を目指していってもらいたい。