前田利家といえば、幼いころから織田信長の傍にいた重臣にして、豊臣秀吉の盟友としてその名を知られ、加賀百万石の礎を築いた戦国の英雄の一人である。
槍を取っては大活躍し、通称の又左衛門から「槍の又左」と呼ばれた剛勇の士でもあった。
そんな彼が、実は若いころに織田氏を追放されていたことをご存知だろうか。
そのまま追放されたままなら後の活躍も、加賀百万石も存在しなかったわけだが、利家は槍働きによってその窮地を自ら切り開くことに成功したのである。
そもそもなぜ追放されたのかといえば、同僚との喧嘩が原因であった。
拾阿弥という男が彼の笄(髪を掻き揚げる道具)を盗み、これに激怒した利家は相手を多くの人が見ている中で叩き斬ってしまったのである。
しかも拾阿弥は信長にいたく寵愛されていたので、そんな男を斬ってただで済むはずがなかった……というのが事の顛末だ。
この事件の翌1560年(永禄3年)、織田氏は未曾有の危機に襲われた。
今川氏による尾張侵攻である。
このとき信長がわずかな手勢を率いて桶狭間で今川氏を打ち破ったことはあまりに有名だが、実はこの戦いに利家も参加していた。
追放は解かれていないから勝手に加わったのだが、結果さえ出してしまえば信長も自分を評価してくれると思ったのだろう。
実際、利家はこの戦いで3つの首級を上げる活躍を見せているのだが、物事はそう簡単にはいかなかった。
信長はこれを無視したのである。
それほど怒りが収まらなかったのか、それともこの程度では足りないと思ったのだろうか。
利家はあきらめなかった。
さらに翌年、美濃の大名・斎藤龍興との森部の戦いにも再び無断で参戦、今度も2つの首級を上げる。
特にその片割れは「頸取足立」と謳われた足立六兵衛であった。
この活躍に、ついに信長も利家の帰参を認め、以後利家は再び信長の側近として大いに活躍していくこととなる。
戦国の世において、槍働き一つで自らの運命を変えるということは確かにあったのである。