武勇の将、剛勇の士と褒め称えられる戦国武将は数多いが、その筆頭格に数えられる人物として、徳川四天王のひとり・本多忠勝がいる。
彼を賞賛する言葉や逸話は数多く、それは忠勝が戦場でいかに華々しい活躍をしたかを証明するものに他ならない。
そこで、今回は本多忠勝の剛勇を示すエピソードと言葉をいくつか紹介したい。
代々松平家(のちの徳川家)に仕えてきた忠勝の初陣は13歳とほんの少年のときのことだが、その2年後のエピソードとして「手柄を譲ってくれようとした叔父を制し、手柄は自分で取るものと大言して敵へ突っ込むと、言葉通り武将首を持って帰ってきた」というものがあるため、この頃からすでに相当の勇士であったらしい。
武田信玄が三河へ攻めてきた際も、一言坂の戦い(有名な三方ヶ原の戦いの前哨戦にあたる)において、撤退する味方を守って奮戦し、5本の矢を鎧に受けた状態で家康のもとに戻ってきた。
これを家康は「我が家の良将」と褒め称え、また武田側からも「家康に過ぎたるものがふたつあり、唐の頭に本多平八」と賞賛の言葉があった、という。
やがて家康は織田信長とともに武田家を攻め、ついにこれを滅ぼす。
その際、信長は安土へ戻る前にわざわざ忠勝を呼び寄せてその武功を褒め、「花も実も兼ねた勇士」と自らの家臣団に披露した、という。
その信長が本能寺の変で死んだ際、堺にいた家康は本拠地に戻るために敵対勢力の多い伊賀を抜けなればならなかった。
これが世に名高い「神君伊賀越え」であるが、このときにも忠勝は信長の敵討ちをしようと血気にはやる家康をとどめ、一同の先頭に立って振りかかる危難をはねのけた。
そのため、家康も「無事に戻ってこれたのは忠勝のおかげ」と感謝の意をあらわにしたと伝わる。
これに加えて豊臣秀吉も彼のことを「日本第一古今独歩」、つまり「日本において今も昔も忠勝以上のものはいない」と褒め称えたので、3人の天下人すべてが彼の武勇に感嘆した、ということになる。
そして忠勝の真に凄まじいところは、13歳のときに初陣してから63歳で亡くなるまで、50あまりの戦いに参加し、ついにかすり傷ひとつ負わなかった、ということだ。
この話が真実かどうかはともかく、そのように語られるほどに彼の武勇は伝説化していたのである。