細川忠興夫人・ガラシャ(玉子)もまた波乱万丈の生涯を生きた一人である。
父は明智光秀――本能寺の変で主君・織田信長を死に追いやったことであまりにも有名な明智光秀だ。
そのせいもあって、彼女は少なからず日陰の生活を送らなければならなかった。
本能寺の変後、本来は縁が深かった明智につかず羽柴(豊臣)秀吉についた細川忠興としては妻である彼女をそのままそばにおいておくわけにいかず、2年にわたって丹後の味土野に閉じ込めてしまったのである。
それでは忠興からガラシャへの愛情は薄かったのかといえばそんなこともなく、「庭先から彼女を見た職人が忠興の怒りを買い、首を切られた」などというエピソードもあって、むしろ愛は重かったらしい。このような狭苦しい状況に嫌気をさしたせいなのか、彼女は神の道に救いを見出した。
キリシタン禁令をものともせずに洗礼を受け、「ガラシャ」の霊名を持つキリシタンとなったのである。
そんな彼女に生涯最大の危機が訪れたのは1600年(慶長5年)、夫が徳川家康に付き従って上杉景勝討伐に出かけていたときのことだ。
この時期、ガラシャをはじめとする大名の家族たちは大坂城下の屋敷に住まわせられていた。実質的な人質である。
そして、家康不在を好機と見た石田三成が挙兵し、関ヶ原の役が始まる。
三成はさっそく彼女たちを人質として活用するべく、まず最初にガラシャに対して「大坂城にくるように」と使者を送った。
名門・細川氏を押さえることの意味も大きかったろう。
これに対し、ガラシャは断固拒否の態度をとった。
出発前の忠興が「人質にならないよう気をつけろ」と注意を促していた、ともいう。
家臣は脱出も促したがガラシャは首を振らず、ついに三成の手勢が屋敷を囲むと、娘たちを逃した上で驚くべき行動に出た。
なんと家臣に長刀で自分の胸を突かせ、屋敷に火を放たせたのである。
キリシタンには自害が許されなかったため、このような形で死を選んだのだという。
家のためか、夫のためか、それとも信仰のためか――ガラシャの行動の真意を知るすべはもはやないが、その悲劇は長く伝えられることとなったのである。