古くから、一番槍――先頭に立って戦いを仕掛けることは武士にとって大いなる名誉であった。
そのため、定められた先鋒を無視し、別のものが抜け駆け行為を行なうケースがしばしば見られた。
この抜け駆けが天下分け目の「関ヶ原の戦い」でも行われたのをご存知だろうか。
その主役が徳川四天王のひとり、井伊直政である。
知勇兼ね備えた名将であり、家康の四男である松平忠吉の舅(妻の父)という地位も占め、徳川家臣団の中でもこの人あり、という人物だった。
さて、関ヶ原の戦いにおいて、東軍の先鋒を務めるはずだったのは福島正則だった。
彼は東軍側についた豊臣系大名の重鎮というべき存在であり、また真っ先に東軍への参加を宣言したことから、家康としてもこれは当然の判断だったといえる。
しかし、直政はあえて抜け駆けを敢行した。
晴れつつある霧に紛れながら関ヶ原を進み、福島隊に見咎められると同行していた忠吉の名を使って「初陣の忠吉さまに戦場を見せる」といった意味のハッタリをかましたのである。
相手が家康の子となれば、福島家としてもこれ以上追求できず、見過ごすしかない。
するすると進んだ井伊隊は西軍の宇喜多隊に遭遇するや攻撃を仕掛け、これを見た福島隊も速やかに宇喜多隊に撃ちかかる。
こうして関ヶ原の戦いは始まったのである。
決して猪武者などではない直政がこんな無茶をしたのはなぜか――その背景にあったのはこのとき徳川家が抱えていた家康の後継者問題ではなかったか、という説がある。
家康の長男・信康はすでに亡くなっており、次男の秀康は結城家の養子になっていたため、最も有力な後継者候補は三男の秀忠だった。
しかし、関ヶ原の戦いにおける秀忠は徳川本隊ともいえる大軍勢を率いながら決戦に遅刻し、その評価を大いに下げていたのである。
ここで忠吉が大きな活躍をすれば、後継者の座を奪い取れる可能性は決してゼロではなかった。
つまり、直政は娘婿のために大博打を仕掛けたのではないか、というわけだ。
結果から見れば、残念ながら直政の賭けは上手くいかず、家康の後継者の座を得たのは秀忠だった。
おそらく直政も分の悪い掛けであることはわかっていたと思うのだが、それでも武将として、槍働きに賭けずにはいられなかったのであろう。