攻城団テレビに新しい動画「なぜ将軍は京から逃げるのか 〜室町幕府将軍が京を離れた期間とその理由〜」を公開しました。
今回は室町幕府の将軍がたびたび京から逃げる(追われる)ので、それを総チェックしてみようという内容です。
もともとは大河ドラマ「麒麟がくる」のときに足利義輝が朽木谷へ逃げているシーンがあり、また足利義昭も信長との関係が悪化して京を追われてたことや、明応の政変で足利義材も京から逃げていたなといろいろ思い出して、榎本先生に整理していただきました。
結果、13回の逃亡例がありました。なおこれは鈎の陣のように将軍の意思で京を離れたケースや、将軍就任前のケースは含んでいません。
今回も1時間半以上話しているのですが、AIに要約してもらうとたったの3行です。
- 室町幕府の将軍が京都から逃亡するケースは13回も存在した。
- 逃亡理由は、敵対勢力からの避難、将軍の権力争いへの巻き込まれ、細川家などの有力守護大名間の対立などが挙げられる。
- 室町幕府は、将軍の直轄軍や経済基盤が弱く、有力守護大名の勢力に翻弄されることが多かった。
将軍が京から逃げた例
では長くなりますが、個別の事例を紹介していきます。
地図は畿内周辺のみですが、その時点、その国の勢力が将軍派(青)、反将軍派(赤)を示しています。黄色は中立あるいは不明(判断不能)です。
明応2年(1493年)、足利義材(27)
いわゆる「明応の政変」です。
足利義材は将軍権力の確率のために積極的に遠征をおこなうも、それが求心力の低下に繋がります。さらには自分を将軍に推してくれた日野富子にも見限られ、あげくに毒殺までされそうになったため、京から北陸へ逃げました。
越中の放生津(ほうじょうづ)に滞在したので、この時期を指して放生津幕府とも言います。その後はもともと討伐対象であった越前の朝倉氏を頼るもうまくいかず、周防の大内氏を頼ることに。
永正4年(1507年)、明応の政変の首謀者である細川政元が「永正の政変」で暗殺され、管領・細川家(細川京兆家)に混乱が生じます。
政元の養子3人のうち、暗殺犯の澄之は自害に追い込まれますが、残る澄元と高国の争いが起き、これ以降「両細川の乱」として畿内が混乱します。
永正5年(1508年)、足利義澄(27)
細川家(細川京兆家)の内紛をチャンスと見た前将軍・足利義尹(義材から改名)は大内義興(よしおき)の兵とともに上洛するのですが、このとき細川家を率いていた高国が将軍である義澄を見捨てます。
そのため義澄は逃げざるを得ず、近江にいた細川澄元と手を組み、義稙(義尹からさらに改名)&高国の政権を脅かすことになります。
永正10年(1513年)、足利義稙(47)
将軍に返り咲いた義稙ですが、義澄・澄元らによる反乱軍を船岡山の戦いで撃退するも、その一年半後、突然近江国甲賀へ出奔します。
義稙を支える四人の重臣、細川高国・大内義興・畠山尚順(ひさのぶ)・畠山義元(よしもと)が忠誠を誓って起請文を出したので義稙は帰京。
義澄はすでに亡くなっており、おそらく共通の敵がいなくなったため、内部分裂を避けるためのパフォーマンスではないかとのことでした。似たようなエピソードが上杉謙信にもありましたね。
じっさい『和泉卿記(いずみきょうき)』という史料には「今回の件は何か野心があって企てられたのだろう、と諸大名は互いに話し合った」的なことが書いてあるそうで、バレバレだったようです。
義稙は前回、明応の政変ではしごを外された苦い経験があるので、重臣たちの支持を確立させておきたかったのではないかと思います。
大永元年(1521年)、足利義稙(55)
領国の情勢不安のため大内義興と畠山義元が帰国、さらに畠山尚順は息子の稙長(たねなが)との対立があり、義稙を支えるのが高国のみとなっていたところへ澄元が攻め込みます。
高国は義稙に「一緒に近江へ逃げよう」と誘うも、義稙は高国を見捨てて澄元につきます。しかしその直後、澄元が病死したため、義稙は堺へ逃げることに。さらに淡路、阿波へ移ってそこで流浪の将軍である義稙も亡くなりました。
このあたりから細川家(細川京兆家)の家督争いがメインで、そこに将軍が巻き込まれる構図になっていきます。
大永7年(1527年)、足利義晴(16)
将軍・義稙に代わり、足利義晴が12代将軍となるも実権は高国(出家して当時は「道永(どうえい)」を名乗る)が掌握することに。
しかし家臣の香西元盛(こうざい もともり)の裏切りの噂を信じて自害に追い込んだため、その兄弟である波多野元清(はたの もときよ)と柳本賢治(やなぎもと かたはる)がそれぞれ丹波八上城・神尾山城両城で反旗を翻します。
さらに細川六郎(=澄元の子でのちの「晴元」)が挙兵したので、義晴は高国とともに再び近江へ逃げました。この時点で高国(道永)政権は崩壊します。
大永8年(1528年)、足利義晴(17)
義晴は高国と和睦交渉のために京へ戻ってきたものの、交渉は決裂、再び近江坂本へ逃げることに。
なお高国はこのあと享禄4年(1531年)に亡くなります。
それが動画の冒頭、足利義詮が楠木氏討伐のために出陣した尼崎の話で紹介した「大物崩れ」で、味方についたと思った赤松政祐(のちの晴政)の裏切りにあって、政祐・細川晴元・三好元長の連合軍に敗れます。
政祐は父の義村を浦上村宗に暗殺された恨みがあり、最初から裏切る前提でした。これはのちの三好長慶を信じた細川晴元と同じで「なぜ信じてしまうのか」と疑問に思うんですが、不思議ですね。
一方の義晴は坂本からさらに朽木庄へ避難しましたが、奉公衆・奉行衆なども付き従ったので朽木庄で幕府政治をおこなったそうです(朽木幕府とでも言えそうなのになぜ言わないのかな)。
享禄4年(1531年)には浅井亮政が晴元に呼応して朽木庄のある高島郡を攻めたため、義晴は坂本へ移動します。ちなみにこの頃、高国は打倒晴元の協力者を得るために諸大名のもとを遊説していました。
その高国が大物崩れで自害したことを受け、後ろ盾を失った義晴は六角定頼を頼り、六角氏の居城・観音寺城山麓にある桑実寺で約2年ほど幕府政治をおこないます(これも桑実幕府とか言いませんね)。
翌年の天文元年(1532年)、細川家内で争いが起き、新将軍候補で堺公方と呼ばれた足利義維(よしつな)が淡路へ没落したため(このいざこざで三好長慶の父・三好元長が自害に追い込まれた)義晴と晴元は和睦して、天文3年(1534年)に義晴はようやく京に帰還します。
(晴元は翌年に義晴の偏諱を受けて、六郎から改名)
ちなみに義晴と義維は兄弟で、足利義澄の子です。
義晴は播磨の赤松義村のもとに、義維は阿波の細川澄元のもとにそれぞれ送られています。その後、義晴は高国によって将軍に就任しますが、義維はというとなんと父のライバルであった義稙の養子になっています。
このへんは「敵の敵は味方」という感じでじつにややこしいです。これは義晴の子の義輝と義昭、義維の子の義栄の対立(というか各勢力に神輿として利用される)につながります。
天文10年(1541年)、足利義晴(30)
細川家中の争いは続きます。
今度は晴元と家臣の木沢長政(きざわながまさ)の対立が起き、義晴はまた近江坂本へ逃れます。
翌年、長政が討ち取られたことを受け、京に帰還します。
天文15年(1546年)、足利義晴(35)
晴元に敗れた高国の従兄弟の子、細川氏綱が後継者として台頭します。
打倒晴元の兵を挙げた氏綱が軍勢を進め、京を制圧すると晴元は丹波に落ちのび、一方の義晴は東山慈照寺(銀閣寺)に入ります。どうやら義晴は晴元の苦境を見て、氏綱側につこうとしていたようです。
しかしその後、晴元方の三好勢が阿波・淡路から渡海して入京し、さらには晴元が丹波から戻ったため、義晴は近江坂本に避難しています。
この避難先の坂本で義晴は息子の義輝(当時は義藤)に将軍職を譲ります。
義輝の烏帽子親(元服の時に烏帽子を被せる役目)をつとめたのは六角定頼で、高国死後に庇護してもらったこともあり、六角氏の影響力が増していることがわかります。
天文16年(1547年)、足利義輝(11)
大御所となった義晴が晴元を見限り氏綱についたため、晴元は阿波に逼塞していた義晴の兄弟・義維を擁立しようと画策します。
晴元は義藤と義晴の籠城する将軍山城を包囲します。このとき六角定頼も晴元方に加わっており、義晴は将軍山城に火を放ち、城を出て近江坂本に逃げます。六角氏の勢力圏である坂本へ逃げたのは不思議ですが、将軍山城から逃げられるのは(山を超えた先にある)坂本くらいなのと、定頼は晴元との和睦を望んでおり、命の危険はなかったからだと思われます。
定頼は義晴の支援者であると同時に晴元の舅でもあり、両者の関係を回復させるため奔走しており、すごくいい人だなという印象です。
天文18年(1549年)、足利義輝(13)
三好長慶は晴元からの独立を考え、細川氏綱につきます。
これに畿内近国の守護代や国人も同調したため、義晴・義輝は晴元と近江坂本へ逃げ、さらに穴太(あのう)へ移動します。
そして天文19年(1550年)、義晴は京へ戻ることなく死亡します。
義晴は将軍在位期間のほとんどを京以外の場所で過ごしており、波乱の人生を送っていますね。
天文22年(1553年)、足利義輝(17)
義輝は父の死後も数年にわたって三好長慶と戦い続けていましたが、天文21年(1552年)に六角定頼の子である義賢(よしかた、のちの承禎)の仲介によって和睦が成立します。
当時は朽木谷にいましたが、たしか「麒麟がくる」のシーンはこの頃だったはずです。
京に戻った義輝ですが、幕臣は親三好派と反三好派に分かれており、最終的に義輝は長慶との断交を決断します。将軍の「御敵」に指名された長慶は2万5千の軍勢を率いて上洛すると、東山霊山城を攻め、落城させます。
義輝は晴元や近衛稙家らとともに京を離れ、丹波を経由して朽木へ逃れました。この朽木滞在中に名を義輝に改めています。
三好長慶は足利義維を阿波から上洛させ、新将軍として擁立しようとしますが、最終的には実行しませんでした。義維も振り回されまくりですね。
永禄元年(1558年)、ついに義輝は朽木で挙兵しましたが、両者決定打なく、和睦して京へ戻ることに。この和睦は六角義賢が仲介したようです。
なお義輝が長慶と組んだことで晴元は孤立することとなり、最終的に長慶に敗れて幽閉されて永禄6年(1563年)に亡くなります。
また細川京兆家の家督を継いだ氏綱はあくまでも長慶の傀儡であり、永禄6年(1564年)に亡くなりました。
永禄5年(1562年)、足利義輝(26)
義輝は三好氏と手を組み、政権運営をします。
永禄5年(1562年)、久米田の戦いで三好軍が畠山高政・六角義賢の軍勢に敗れると、義輝は石清水八幡宮に避難します。
その後、三好軍が畠山軍を打ち破り、六角軍も撤退したため、義輝は京へ帰還します。
動画でも触れましたが、このとき義輝は畠山らに味方していた幕府重鎮・伊勢貞隆(いせ さだかた)を粛清しています。
そして義輝が新たな政所執事として任命したのが「麒麟がくる」にも登場した摂津晴門(せっつ はるかど)ですね。
その後、永禄7年(1564年)、長慶が病死すると三好氏の権威は低下し、一方で義輝の権威は上昇しました。
義輝は傀儡となることを受け入れず、三好氏との対立は強まり、永禄8年(1565年)ついに三好三人衆らは二条御所を包囲して、義輝は近臣とともに討ち死にしました。いわゆる「永禄の変」です。
出家していた義輝の弟・覚慶は細川藤孝ら幕臣に救出されると、還俗して義秋と名乗り、さらに朝倉義景の庇護を受け、義昭に改名しました。
そして信長に擁されて上洛し、将軍に就任したのは、みなさんご存知ですね。
元亀4年(1573年)、足利義昭(36)
将軍となった義昭は信長と方針がぶつかって対立し、最終的に反信長の兵を挙げます。
一度は和睦したものの、再度槇島城で挙兵し敗北、降伏すると、京から追い出され、河内国若江(わかえ)に移ります。
このとき義昭・信長・毛利の三者で「義昭の帰還」をめぐる話し合いが持たれたものの、義昭が信長に人質を要求したため決裂、けっきょく和泉国堺、紀伊国由良を経て、備後国鞆(とも)へ逃げて、いわゆる「鞆幕府」を開きます。
番組では義昭が信長に人質を要求したことについて「なぜこのような自分の立場を理解していない、分不相応な要求をしたのか」と話していたのですが、あらためて経緯を確認すると、最初に義昭が挙兵した際、信長から義昭に対して息子(誰のことかは不明)を人質とすることを条件に講和を申し入れていました。
信長としては将軍の御敵にされるとまずいので、人質を出すことで不利な状況を回避しようとしたわけですが、義昭は勝てると踏んで承知しませんでした。
おそらく義昭としては時計の針をこの時点まで戻して、あらためて人質を出せと言ったのだと思いますが、そんな虫のいい話があるわけもなく、呆れられて決裂するのは当然です。
まとめ
このように10代・足利義材以降、室町幕府の将軍たちはさまざまな理由で京を追われ、ときには長期にわたり、ときには流浪を続け、ときには助力を得て京へ帰還し、ときには逃亡先で死去しました。
番組の問いである「なぜ将軍は京から逃げるのか」について、榎本先生は室町幕府の成立過程を踏まえ、将軍の直轄兵力の少なさや経済基盤の弱さがあり、ゆえに有力守護大名らの争い事に翻弄される構造的な問題を抱えていたと指摘されていました。
今回取り上げた13回の逃亡例も、戦国時代の始期とされる明応の政変ではじまっているように室町時代から戦国時代に移行する、混乱の時代であることを示しています。
言い換えれば将軍という立場が天下人の傀儡となり、彼らの都合にあわせて交代させられ、あるいは義輝のように殺されることになりました。
とくに管領であった細川家(細川京兆家)の家督争い、さらには細川家の家臣同士の争いや三好長慶の独立など、今回の動画を通じてやはり室町時代の畿内(=天下)の歴史は細川家を抜きに語れないなとあらためて思いました。
個人的にはこれまで避けていた「両細川の乱」のことがなんとなく理解できたのはよかったです。
また動画の中でも話題に出ましたが、「外戚」「三管四職」「ナンバー2の日本史」など、これまでに榎本先生に教わってきた内容が補助線のようになっていることがうれしかったです。
もちろん今回の動画ではテーマからはずれるのではしょった部分も多々ありますので、また別のテーマでこの時代を取り上げて、より立体的に理解したいですね。
ということで、ぜひ動画本編も(ちょっと長いですが)ご覧ください!
なぜ将軍は京から逃げるのか 〜室町幕府将軍が京を離れた期間とその理由〜
関連するお城
今回取り上げた時代のうち、とくに義晴以降は京周辺が戦場になっており、将軍の城も築かれました。
中尾城、北白川城(勝軍山城)、東山霊山城などがそれです。また、西院小泉城は三好長慶と対立した義輝が自ら軍勢を率いて攻めています。船岡山城もたびたび戦場になっていますね。
京都市内のお城というと二条城とせいぜい聚楽第くらいしか思い浮かばない方も多いかもしれませんが、信長入京前にはたくさん城があったのでこういうお城でもいずれ「城たび」を開催できるといいですね。