攻城団ブログ

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「守護代ってなに?」の動画を公開しました

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今回は戦国大名が定めた「守護代」について榎本先生に教えてもらいました。
いつものように長尺の動画になっているのですが、ポイントはひとつで「守護代と言ってもみんなが現地に赴任してたわけじゃなく、守護とともに京都にいた人もいた」ということです。またその場合に代理の代理で派遣された(あるいは現地採用で委任された)人のことを「小守護代(又守護代、又代とも)」と呼ぶということだけ覚えていただければ良いかなと。

以下、榎本先生に事前にまとめていただいた資料を引用しつつ、今回の動画を紹介します。
1時間ほどの番組を収録するのに、毎回これだけの下調べをしていただいてます(正確には繰り返しの部分やぼくがコメントしている話は割愛しているので、文量としてはもう少し多い)。
ぼくだけ独占するのはもったいないので、できるだけメモの内容もシェアしますね。

そもそも守護代とは?

・中世日本(鎌倉時代・室町時代)において各国を統治していたのが守護。しかしこの時代、のちの時代の大名と違って、守護は多くの場合において鎌倉あるいは京に在住しており、任地にはいなかった。そこで代わりに現地統治をする代官が必要になった。それが「守護代」。
→一応私的な役職だが、実質的には公的職のようなものだった。

教科書でも「守護の代わりに分国へ入り現地を取り仕切ったのが守護代」と習った人が多いと思いますが、冒頭に書いた通りそうじゃないケースもあったということです。

そもそも「守護」を設置したのは源頼朝で、現在はその設置年が鎌倉幕府の成立年とされていますが、鎌倉時代から室町時代にかけて、守護のあり方もかなり変遷しています。

・鎌倉時代の守護はどんなものだったか?
→承久の乱までの初期はただの役人のようなもので、世襲できていない
→承久の乱以降は世襲するようになったが、封建領主的にはまだ権限がそこまでではない。また、結局のところ北条氏にかなりの部分で独占されてしまっていた。元弘年間末期の時点で、57国中北条一門が30、外様御家人22、守護不設置5。この中で頼朝以来になるとさらに減って、足利や千葉、佐々木、大友、島津など八氏十国。
→この時代の守護はその地域の軍事を統括する役職であり、行政面ではともかく軍事面では大きな力を持っていた。北条が独占にかかったのもそのためでは?

・建武年間の守護はどんなものだったのか?
→時期が短いこともあって詳しいことはよくわからないが、足利尊氏や新田義貞、楠木正成といった鎌倉幕府打倒で活躍した有力武士に守護職を与える(北条氏の所領を分け与える、あるいはそもそも奪われていた所領を返すという形が多かった模様)流れがあった。背景として、北条残党の存在などで不穏な情勢を、有力武士を守護にすることでその力を借りて収めるというところがあった模様。また、数ヵ国の守護を務めたり、国守あるいは知行国主をも一緒に務めるケースが少なからずあって、のちの守護大名の萌芽がこの辺にあったと考えて良いのではないかと。

・室町時代になるとどうなるか?
→守護がただの役人ではなく、世襲し、また土地を自らのものとして支配し、国守・国衙の権限まで自分のものにしていく。いわゆる「守護大名」化。その背景には戦乱が続く中で、本来は戦時の一時的な扱いとして敵の土地を部下に分配する権限を守護が持ったりしたのが通常のスタイルになっていく中で、封建体制が確立していく。

・守護代にはどんな人間がついたか?
→守護と同じ一族のもの/守護の内衆(譜代直臣)/有力国衆(国人)/国衙目代 (こくがもくだい)

・守護代は本当に任地にいたのか?
→国衆や目代はそもそも地元の武士だから任地にいるが、内衆(うちしゅ)などは守護と一緒に鎌倉だったり京都だったりにいるので、任地にはいない。
→守護代が任地にいない場合は、「又守護代」あるいは「小守護代」と呼ばれる代理の代理が郡単位で置かれたりして、現地の統治を行った。

実例として、守護大名・畠山氏における守護代

守護も守護代もたくさんいるので、今回は畠山氏を取り上げてもらいました。
理由は七尾城の取材をした際に、ざっくりではありますけど畠山氏の歴史を学んだことと、マンガを作る際に守護代としての遊佐氏について教わっていたので、少しだけ予備知識があったからです。
畠山氏のほかの分国、河内や越中などでも遊佐氏が守護代をつとめていて、畠山=遊佐のセットで当時の日本の何分の一かは支配されていたというのはすごいことですよね。
なお「三管四職」の回で紹介したとおり、畠山家は越中・河内・紀伊・能登などの守護をつとめ、室町幕府の管領家の一角を占めた名門武家です。一時期、山城の守護をつとめたりもしてます(詳しくは「三管四職」の延長回で膨大なリストをつくってますのでご覧ください)。

・畠山氏の重臣として遊佐(ゆさ。「ゆざ」が正しいともいうが、国史大辞典がゆさなのでとりあえずこっちで)氏という一族がいて、しばしば守護代を務めた。
→遊佐氏は出羽に名字の地がある武家。どんな流れで畠山の家臣になったのかはよく分からないが、南北朝時代に遊佐国重(くにしげ)という人は畠山氏に仕えて伊豆守護代、また越前守護代になっているので、この辺が一つの画期じゃないかなとは思われる。その後、遊佐氏は畠山氏の重臣になって、畠山が守護職を世襲した河内・越中・紀伊・能登について、ほぼ守護代を務めた。さらに小守護代についても遊佐氏の人間が命じられたりしている。
・守護代は基本的に「任国の統治を担当する」役職ではあるが、やはり守護との結びつきは強いため、守護家が内紛を起こすと守護代も巻き込まれて内紛を起こしたり衰退したりする。

「変と乱」の回でやったとおり、室町時代はとにかく戦乱が多いのですが、足利義満の時代に「明徳の乱」や「応永の乱」が起こり、足利義教の時代に暗殺事件「嘉吉の変」が起こり、足利義政の時代に「応仁・文明の乱」が起こり、ほかにも多数の事件が起こっています。
そのたびに有力守護家である畠山氏にも大きな影響があり、分国や守護代にも変化が生じています。あるいは「応仁・文明の乱」においてはそもそものきっかけをつくったのが畠山氏の家督争いだったとも言われており、この場合は対立する派閥同士がそれぞれ守護代を任命するなど、やはり守護代も無関係ではありませんでした。

では各分国ごとの状況を紹介します。
ざっと主要登場人物をまとめましたが、略図にしたつもりなのにややこしいですね。

河内守護代

・この守護代職を継承したのが遊佐氏の嫡流であると考えられている。遊佐以外が守護代を担当した例はごく稀。例外としては「西方国賢」という名前が上がりますが、どんな人物だったかさっぱりわからないし名前の読み物わからない。にしがたくにかた? もう一人、安見直政(やすみなおまさ)という名前も戦国時代に出てきますが、この人については後述。
【今谷明『守護領国支配機構の研究』】

・河内は室町時代の後期の騒乱でかなり戦いがあった地域なので、遊佐氏もしっかり巻き込まれている。応仁の乱がとりあえず和睦で終わると、京を逃れた畠山義就が河内へ入ってきて、政長派の守護代・遊佐長直(ながなお)の守る若江(わかえ)城を攻め落としている。

・ここで頭角を表してくるのが木沢長政(きざわながまさ)。木沢氏はもともと「畠山三奉行」と呼ばれる家の一つで、総州(そうしゅう)家(義就系)に近しい立場だったが、彼が成人した時にたまたま尾州(びしゅう)家(政長系)の人間が守護だったので尾州家に仕えたという経歴の持ち主。
→木沢長政の話が二つ見つかってどっちなのかわからなかったので両方紹介します。一つは、長政はもともと畠山に仕えていて、守護代の立場にあったという。しかし、遊佐家の誰かを殺したことが原因になって畠山を出奔し、細川高国(たかくに)に仕えることになり、細川晴元(はるもと)のもとでも力を振るったという。
【山下真理子「天文期木沢長政の動向―細川京兆家・河内義就流畠山氏・大和国をめぐって―」という論文から】
→もう一つは、畠山の内紛が続く中で、長政は総州家の畠山義英につき、また守護代・遊佐氏の追い落としをはかった。どこまで長政の謀略があったかはわからないが、河内守護代・遊佐堯家(たかいえ)が細川高国との戦いに敗れて出奔し、その後釜として長政が河内守護代になった。長政の本来の主君は河内守護の畠山義堯(よしたか、総州家)となったが、むしろ京の細川晴元と結びつき、彼のもとで戦功をあげて、主君からの自立を図る。結果、義堯が長政を攻め、これに晴元が援軍を送り、最終的には義堯が滅びることになった。
【『羽曳野市史 第1巻 下(本文編 古代・中世)』】
→どちらにせよ、木沢氏の勢力が畠山や遊佐の勢力を一掃してしまったわけではなかったようで、守護代には遊佐長教(ながのり。三好長慶(みよしながよし)の継室の父)がついているし、長政はむしろ大和へ進出している(大和守護になったという話も)。また、畠山在氏(ありうじ)を擁立して総州家の実権も握っていたようだ。そんな中で長政は結局晴元と対立することになり、さらに長教が当時の河内半国守護・畠山政国(まさくに。尾州家)を追い落としてその兄の稙長を擁したのに対し、長政は政国を擁立する形になり、結果として長政は晴元・長教らとの戦いの末に滅ぼされている。

・その後、長教は幼い畠山尚誠(ひさまさ)を守護として擁立するなど権勢を振るうが、間も無く暗殺される。彼を殺したのは近侍で、すぐに始末されているので、謀略の匂いがする。さらにその後はしばらくの小康状態を経て三好長慶による畿内政権、松永久秀・三好三兄弟らによる争いの時期を経て、織田信長が上洛してくる。この時期の河内守護代は長教の子の信教(のぶのり)で、信長上洛後には足利義昭に仕え、信長・義昭の対立後は反織田の立場で戦った。
【概ね『河内長野市史 第1巻 下』】
→なお、長教の死後は安見直政という人物(守護になった畠山高政の側近)が守護代になったという話が知られているが、近年の研究ではこの人物の名及び守護代になったという話は信憑性の高い史料には登場しないという。史料に出てくるのは宗房(むねふさ)。
【弓倉弘年『中世後期畿内近国守護の研究』】
→長教の子の信教は主君の畠山昭高(あきたか)を殺している(この頃にはもう元亀年間になっていて、信長らが上洛している)。その信教の子の高教(たかのり)という人は秀吉・秀頼に仕えたあと徳川忠長(ただなが)に仕え、忠長が死ぬと浪人。その養子の長正(ながまさ)は徳川頼宣(よりのぶ)に仕えた。
【『大坂の陣 豊臣方人物事典』】

紀伊守護代

・建武年間(一三三四―三八)に北朝側で守護になった畠山国清のもとの守護代としては、大和光富(おそらく「やまとみつとみ」。濫妨を訴えられて失脚)や杉原某(すぎはらなにがし。周防守)という名前が残っている。一方、応永年間には遊佐家久(いえひさ)の名前が守護代として出てくる。
【『和歌山市史 第1巻(自然・原始・古代・中世)』】

・南北朝期には北朝側が畠山国清(くにきよ)・細川宗茂(むねしげ)・山名義理(よしただ)、北朝側が浅野覚心(かくしん)・忠成(ただなり)、保田宗兼(やすだむねかね)という具合にそれぞれ守護を立てて争った。南北朝の統一の後、山名義理が明徳の乱で失脚(なお、美作・紀伊の守護であった山名義理の兵が京都へ攻めのぼるのを、砦を築いて防いだのは河内守護代の遊佐国長だったとか)、続いた大内義弘(よしひろ)も応永の乱で死ぬ。
→やっと安定して守護を務めるようになったのが畠山基国以降の畠山氏。この基国の時に守護代も遊佐氏が世襲して継承するようになる。ただ、守護代も、その下につく郡代も基本的には地元の人間を採用しなかった。

越中守護代

・ここも本来は遊佐氏が独占。現地には又守護代が派遣されていた(ただ、一族自体は早い段階で土着して国衆化していたという話も)。
→神保(じんぼ)氏の素性はよくわからない。惟宗(これむね)姓とも、橘姓とも、平姓とも。鎌倉初期には畠山譜代の家臣であったとも、古くからの越中土着の武士であったとも。「元は関東の武士で、畠山に従って京へ入り、そこから越中へ」という話も。
→椎名(しいな)氏はもともと千葉氏の流れで、鎌倉時代にはすでに越中で在地武士になっていたとものと考えられる。畠山が越中に入ってきたのでその臣下になった。
・遊佐国政(くにまさ)が嘉吉元年に没落した後、遊佐・神保・椎名の三守護代による分治体制へ
→原因は嘉吉の乱(足利義教の暗殺)に前後する畠山一族内部の内紛にある。この時期、畠山氏当主の持国(もちくに)が、異母弟持永(もちなが。を寵愛する義教)によって一時的に退けられていたが、国政は持永についた。ところがその義教が死に、持永も滅ぼされたので、国政は没落したというわけ。
・神保氏は永享年間(1429−41)には越中に入っていたようだがそれだけでなく、在京したり越中以外で畠山のために働いたりしていたらしい。椎名氏が越中に入ったのも同じ頃。遊佐氏は引き続き在京して越中には遊佐一族の人間を又守護代として送っていた模様。
・畠山氏内部の後継者争いの際には、遊佐・神保・椎名ら越中勢は概ね弥三郎・政長に味方したため、京の神保館が襲われて時の当主親子が切腹に追い込まれたり、神保氏の本拠地だった放生津城(ほうじょうづじょう)が攻め落とされたりしている。なお、義就側にも遊佐氏の守護代がいたが、越中には入れていなかった模様。
・守護代が三者に分かれた後については、遊佐氏が礪波郡(となみぐん、西部)、神保氏が射水郡(いみずぐん、西北部)・婦負郡(ねいぐん、中央部)、椎名氏が新川郡(にいかわぐん、西部)をそれぞれ管理していた。
【主に『越中中世史の研究:室町・戦国時代』より』】

・足利義材(義稙)(よしき/よしたね)が明応の政変で京と将軍職を追われたあと、一時期は神保長誠(ながのぶ)が(畠山氏の指示もあって)放生津に匿っており、遊佐・椎名もこれを支持した。この時期を持って越中の守護代たちが戦国大名化したという指摘もあるが、あくまで畠山の支配下にあったともいう。
・戦国時代初期には加賀一向一揆によって一時的に越後へ追いやられ、またこの戦いに介入していた越後長尾氏が新川地域を領有。こういう流れの中で越中遊佐氏が弱体化し、椎名・神保が二大勢力化していく。
【主に『下村史』】

・この長尾氏ののちの姿である戦国大名・上杉氏が越中を圧迫し、越中守護代三家が戦国大名として強大化することはなかった(戦国大名にはなったとする資料も多い)。最終的にはまず椎名氏が上杉に与し、神保氏も武田と結んで対抗したがやがて内紛を起こす。その後、今度は椎名が武田に裏切って神保が上杉と結ぶ体制になり、椎名が上杉に滅ぼされ、結局上杉が越中を統一する(その後、織田が攻めてくる)。
→椎名のその後は椎名景直(かげなお。元は長尾一族で、椎名が上杉に従っていた時期に養子に入る)が継承したんですが、この景直がどうも上杉景勝と対立して戦い、敗れたらしい。その後、織田方についたという話もあるが確認できず。
→神保氏はおおむね上杉に就いたが、神保長住(ながずみ)は出奔。織田信長の助けを得て越中に戻ったものの、今度はその信長の怒りを買って追放され、これによって越中神保氏は滅亡した。なお、この越中神保氏の流れを汲む家系が旗本になり、神田神保町の由来になったという話もある(諸説あり)。

能登守護代

・能登は畠山基国(もとくに)の次男をルーツに持つ能登畠山氏が代々守護職を継承。しかしこの家も基本は在京だったので、遊佐氏が守護代になった。ただ、こちらの遊佐氏は在京ではなく、能登の守護所で統治を担当していた。
→応仁の乱の後には能登畠山氏が下国し、自らの手で領国を治めて戦国大名化を進める。そのため、能登の遊佐氏が独立して大名化するようなことはなかった。特に畠山義総(よしふさ)の時に全盛期が訪れた。

・義総が死んでその子の義続の代になると、重臣の中でも筆頭格にあたる遊佐続光(つぐみつ)と温井総貞(ぬくいふささだ)の二人を中心にした内紛が勃発。これ自体は講和で終わったが対立関係は続き、この二人を中心にした「畠山七人衆」体制の中で大名である義続は実権を失っていった。両者の争いは義続が引退して義綱に代替わりした後になって続光が国の外へ逃れるという形で一時決着した。続光は逆襲のため国内へ舞い戻ったものの、再び敗れて越前へ逃れた。この時、七人衆から遊佐氏の人間が排斥され、温井派の力が強まった。
→義綱が父と共に総貞を謀殺すると、畠山親子及びその直臣(戻ってきた続光含む)と、一度加賀へ逃れた温井派ら(畠山一族の人間を擁立)による内紛が勃発。上杉氏の支援で解決したと思いきや、今度は義綱と重臣たちが対立し、義綱が近江へ逃れることになった。最終的に能登は上杉が奪った後に織田が攻めてきて占領した。遊佐一族は上杉方についたが、織田方に城を奪われて、最後には潜伏中に発見されて殺された。
→温井氏というのは輪島のあたりに勢力を誇った国衆で、元は桃井氏の流れというが、これはどうも後世の創作っぽい(権力を増していた頃にこの主張が出てきたので、越中守護で能登にも度々攻め入ってきた桃井の名前を借りようとしたのか?)です。温井は上杉にーよって滅ぼされた。(一族の一部は上杉に仕えて米沢藩士になったという話もあるが確認できず、これは見つけられなさそう)
→守護代ではないが、畠山七人衆の一人・長続連も出した長氏はもともと「長谷部氏」と名乗っていて、鎌倉初期に能登へ入ってきて定着。畠山の重臣になる一方、幕府将軍家の奉公衆になった。続連は長子と共に遊佐続光に殺されたが、次子の長連竜は独力で反抗し、のちに織田が能登を支配するとその家臣になる(遊佐を殺したのもこの人)。信長の死後は前田家臣となり、江戸時代になってもそのまま前田家重臣として仕えた。

能登の事情については「マンガでわかる七尾城」に詳しいのでぜひご一読ください。

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佐渡守護代

・ごく短期間ながら、畠山氏が佐渡守護だったこともある。この時の守護代は本間(ほんま)氏。

・本間氏はもともと相良の武士で、鎌倉時代に佐渡で地頭になり、やがて守護代になるが、当初は年に一度、佐渡へ訪れていた。その後、土着して佐渡の各地に家が分かれ、国衆化していく。しかし上杉氏に滅ぼされてしまう。

まとめ

ひとくちに守護代と言っても多くの方のイメージ通り守護に代わって分国へ赴任した者、在京したまま小守護代を派遣した者、現地採用された者などいろんなケースがあることがわかりました。
畠山氏における遊佐氏、上杉氏における長尾氏のようにセットで語られるような守護代家(一族)もいますが、有力守護大名家の守護代を数多くつとめられるということは、それだけ大きな一族だったわけで、もっと注目されてもいいのにと思いました。
(まあ滅亡した守護大名家の、さらに守護代家ともなれば史料がほぼ残ってないんでしょうけど)

以下が榎本先生のまとめです。

・改めて、「守護代ってなんなの?」
→基本的には「守護の部下・代理」。ただ、守護家との関係性がどのくらい深いか(その逆の要素として現地とどのくらい深く結びついているか)によってその立場はかなり変わる。畠山と遊佐のように守護家と強力に結びつき、任国にも守護家と一緒に入っていって、かつあちこちに血筋が広がっている家もあれば、神保氏のように守護より先に土着していて、守護が入ってきたからその支配下に入った家もある。
→全体的な傾向としては、「守護職と深く結びついているタイプの守護代は戦国乱世にはあんまり適応できなかったのでは」という気がする。畠山氏の下にあってある程度戦国大名化した神保・椎名は比較的土着性が強そうだ。戦国大名化した守護代としては織田と長尾(上杉)が有名だが、前者は結局のところ頭角を表したのは守護代の家臣の家系だし、長尾も戦国大名化したのは一族の傍流で越後府中に住んだ越後(府中)長尾家の家系だ。室町時代に脚光を浴びたであろう、幕府と結びついた家こそ次の時代には適応できない……というのは、生物の進化を見るような気持ちになる(ある時期にしっかり適応した生物は、環境の激変に耐えきれず滅亡し、そうでない特徴を持った種類の中でたまたま次の時代に適応する生物こそが次の時代に繁栄するということがあるため)。

番組中でも似たようなことを話しましたが、戦時と平時で状況が真逆になるということがよくわかりました。
室町時代は全体を通して戦乱が続いていたとは言え、それでも「応仁・文明の乱」は桁違いに大きな戦時でしたし、それ以外の政変やクーデターも全国にかなりの影響を与えていました。
有力守護家は平時における「いい国」を分国として押さえていましたが、それは収穫量が大きいとか交通の便がいいとか良港があるとかといった国のことで、そうした国は戦時には攻撃目標にされやすいとも言えます。

余談ですが(これも榎本先生に教えてもらった話ですが)平安時代に策定された「延喜式」では全国を国力に応じて大国・上国・中国・下国に分類しています。
今回紹介した畠山氏の分国を当てはめると、河内=大国、紀伊=上国、越中=上国、能登=中国、佐渡=中国となり、畠山氏の本拠である河内をはじめ、国力が高い国が多いですね。
ちゃんと裏取りはしてませんが、おそらく三管四職の家は大国や上国が多かったのではないかと。

よって有力守護家の守護代も戦乱に巻き込まれやすく、守護とともに没落していくケースが多かったのかなと思いました。とはいえ斯波氏においては朝倉家や織田家など守護代の家系がいわゆる下剋上を果たしているので、あんまり関係ないのかもしれません。

ともあれ守護代という役割にはいろんなパターンがあり、教科書で「守護の代わりとして現地へ赴任した、実効支配の実務責任者」みたいな簡単な説明では不十分というか、現地へ赴任しなかった守護代もいたという点も踏まえて理解しないといけないし、それだけ室町幕府の守護在京原則は徹底されていたのでしょうね。勝手に分国へ帰ると謀反扱いされるくらいだったので。
守護が京を離れられないとなると、補佐役の重臣も当然在京が基本となり、結果として代理の代理を派遣するしかなくなるというのはなるほどと思いました。

なお守護在京制はすべての守護が対象ではなかったそうです。
鎌倉公方が管轄する関東/東北の守護、九州探題が管轄する九州の守護は免除されていました(関東/東北の守護は在鎌倉が原則だったようです)。また幕府と鎌倉公方(や古河公方)の対立が激しくなり、緊張が高まってくると駿河の今川氏、信濃の小笠原氏、越後の上杉氏などは京を離れて在国することが多くなり、同様に九州の勢力に対する押さえとして周防・長門・豊前国守護の大内氏も在国期間が長くなっています。大内政弘が「応仁・文明の乱」に参戦するのが遅れた理由は「京にいなかったから」です(だから多数の兵を率いて来れたのですが)。

守護代の話からはかなり脱線してますが、あらためて守護在京制について勉強したいですね。
島津氏・大友氏・今川氏・大内氏など、戦国大名化に成功した守護の多くが、在京免除地域に集中していることを踏まえても、この守護在京制が戦国時代の枠組みをつくったひとつの要素なのかもしれません。同時に守護が在京していた越前や出雲では朝倉氏や尼子氏といった守護代家が戦国大名化してますし。
裏を返せば、守護在京制はそれだけ守護の自立や反乱を未然に防ぐだけの効果があったということで、秀吉が聚楽第や伏見城、大坂城に大名屋敷をつくらせて大名を集住させたのも、のちに江戸幕府が参勤交代制を取り入れたのも守護在京制の効果を認めていたということなのかも。

今回の動画ではあくまでも一例として「畠山氏における遊佐氏」を取り上げましたが、もう少しいろいろ勉強した上で、あらためて守護代をテーマに撮り直してもいいかなと思ってます。
学べば学ぶほどわからないことが増えて、いろんな関連テーマに興味がわいてくるので、歴史はほんとうにおもしろいですね。


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