畠山満慶を祖とし、170年間にわたって11代つづいた能登畠山氏の歴史についてまとめました。
能登畠山氏の歴史
畠山氏は室町幕府のNo.2である管領の役職につくことができる名家で、河内(現在の大阪府東部)・紀伊(今の和歌山県)・越中(今の富山県)・能登(今の石川県北部)の4カ国を治めた大守護大名でもありました。室町時代のはじめの能登は吉見(よしみ)氏や本庄(ほんじょう)氏といった地元の武士が守護大名となっていましたが、相次いで失脚したため、1392年(明徳3年)頃に管領の畠山基国(もとくに)が守護大名に任命されました。
基国の子の畠山満慶(みつのり)は、3代将軍の足利義満に嫌われていた兄の満家(みついえ)に代わって畠山氏の当主となりました。しかし、1408年(応永15年)に将軍義満が亡くなると、満慶は兄に当主の座を譲り、自分は領国のひとつであった能登をもらって守護大名となりました。こうして能登畠山氏が成立しました。
2代目の義忠(よしただ)の代までは、京都で将軍の近くに仕えていましたが、3代目の義統(よしむね)の代に「応仁の乱(1467~1477)」が起き、京都が焼け野原となったため、1478年(文明10年)に義統は能登に戻って直接政治を行うようになります。
1496年(明応5年)に義統が死ぬと、畠山義元(よしもと)が4代目の当主となりますが、これに不満をもった義元の弟の慶致(のりむね)は、家臣団の支持を得て兄を追い出して5代目当主になりました。しかし、1506年(永正3年)にはじまった一向一揆との戦いの中で両者は仲直りをし、義元が再び当主となります。
7代目の義総(よしふさ)は、府中(現在の七尾市中心部)にあった守護所(守護が住んでいた平地の館)から山城である七尾城に移り、ふもとに城下町をつくって家臣や職人・商人などを住まわせました。
義総は京都から公家や禅僧などの文化人を七尾に招いて、能登に京都の文化を広めるなど、能登畠山氏の最盛期を築きました。のちに京都で活躍し、安土・桃山文化を代表する絵師となった長谷川等伯(とうはく)もこの時期の七尾の城下町で生まれ育っています。
1545年(天文14年)に義総が死去し、8代目の義続(よしつぐ)の代になると、家臣たちが下剋上を起こすようになりました。家臣たちは1551年(天文20年)に七尾城を包囲して義続を隠居させ、「畠山七人衆」という集団をつくって畠山氏の政治を取りしきるようになります。畠山七人衆のトップは遊佐続光(ゆさつぐみつ)と温井総貞(ぬくいふささだ)のふたりでしたが、すぐに争いをはじめ、1553年(天文22年)に遊佐続光が反乱を起こし、敗れて一時国外に亡命します。
ライバルを蹴落とした温井総貞は絶大な権力を振るいますが、1555年(天文24年)に亡くなりました(暗殺との説もあります)。総貞が死ぬと、勢いを取り戻した畠山義続は遊佐続光を呼び戻し、総貞の子である温井続宗(つぐむね)と対立します。間もなく続宗らは反乱を起こし、七尾城は3年間包囲されますが、義続は越中の椎名(しいな)氏や越後(現在の新潟県)の上杉謙信から援助を得て反撃し、1558年(永禄元年)についに続宗らを討ち取りました。その後も残党が反乱を続けましたが、3年ほどで鎮圧されました。
反乱鎮圧後、勢いに乗った9代目当主の畠山義綱は大名中心の政治に戻し、領国支配を進めました。しかし1566年(永禄9年)、義綱の強引なやり方に反発した遊佐続光・長続連(ちょうつぐつら)らの家臣たちは義綱を追放してしまいます。家臣たちはまだ幼い畠山義慶(よしのり)を当主につけ、畠山氏の政治を独占します。
義慶が成長して家臣たちと対立すると、1574年(天正2年)に家臣たちは義慶を毒殺し、弟の義隆(よしたか)を当主につけます。
そんな中で、天下人となりつつあった織田信長と越後の上杉謙信が北陸地方の覇権をめぐって争いはじめました。
謙信は1576年(天正4年)に長年対立していた加賀(現在の石川県南部)の一向一揆との争いを止め、信長と戦うために京都を目指していました。まず越中を攻略した謙信は12月に能登に進攻し、七尾城を包囲します。しかし、戦上手の謙信でも七尾城を落とすことはできず、翌年3月に一度撤退したため、畠山家臣たちは反撃に出て、奪われた各地の城を取り返しました。
7月になると謙信は再び能登に出兵し、七尾城を再包囲します。その間に疫病が広がり、当主の義隆をはじめ七尾城に立てこもった多くの人々が病に倒れて死んだと言われています。織田派だった続連の子である長綱連(つなつら)は信長に助けを求めますが、援軍は間に合わず、9月に上杉派だった遊佐続光が裏切って上杉軍を城内に引き入れ、長続連・綱連父子と一族を殺害したため、ついに七尾城は落城しました。こうして約170年間続いた能登畠山氏は滅亡しました。
能登畠山氏の家系図
畠山満慶にはじまる能登畠山氏の家系図をまとめました。
なお従来は上条政繁は畠山義続の子で、のちに畠山義春と改名したとされてきましたが、近年では政繁と義春は別人で、義春は1577年(天正5年)の畠山氏滅亡時に政繁の養子となったという説が有力です。
政繁が能登畠山氏一族であるかについては諸説ありますが、「七尾市史」では政繁は義続の子とされており、また義春は畠山義隆の子の春王丸とされています。
落城時の当主は誰か(春王丸=義春説について)
一般に七尾城の落城時の当主は、幼年当主の春王丸で彼は病死したとされていますが、この「義春(春王丸)が城内で幼くして死去した」というのは『長家家譜』など江戸時代の史料にしか記されておらず、当時の状況がわかる史料があまりに少ないため、この内容が通説として定着してしまったと考えられます。
当時の書状によれば、上杉謙信は七尾城攻略直後に「畠山次郎」を上条政繁に好をもって預け、その後「畠山義隆子息」を謙信の養子にしています。
「畠山次郎」と「畠山義隆子息」はいわゆる春王丸を指していると思われ、春王丸は上条政繁に一旦預けられ、のちに謙信の養子になったということになります。ただし、謙信はまもなく死去して「御館の乱」が起きるので、謙信の養子になるという話はうやむやになり、春王丸はそのまま(子がいなかったこともあり)政繁の養子となったのでしょう。
そして、上条政繁・義春父子は上杉家を出奔して秀吉、ついで家康に仕えることとなり、義春は上条から畠山姓に復し、高家畠山氏の祖となります。
ただし、これも確定した事実というわけではないのであくまでも諸説のひとつということになりますが、仮に義春=春王丸であるのであれば、義隆の子なので嫡流ということになり、能登畠山氏は七尾城の落城とともに滅亡しなかったことになります。
家臣団(遊佐氏、温井氏、長氏)の家系図
能登畠山氏の重臣である遊佐氏、温井氏、長氏の家系図です。
とくに遊佐氏は守護代として当主に代わり、所領を統治していました。
ほかにも多くの家臣がいましたが、遊佐氏、三宅氏、平氏、神保氏らは畠山氏に従って能登に入国した譜代の家臣です。
一方、温井氏、長氏、飯川氏、熊木氏らは在地領主(いわゆる国衆)で畠山氏が能登守護になってからの家臣です。
畠山七人衆の成立はいつか、落城時まで体制は継続されたのか
おおまかな流れは以下のとおりです。
- 七人衆の成立は畠山義総の死後。義総の死は1545年(天文14年)。
- 8代・畠山義続の代に反乱を起こし、1551年(天文20年)に家臣団は七尾城を包囲し、義続を隠居させると、「七人衆(=七頭)」をつくった(同年3月に成立)。義続が隠居し、幼少の義綱に家督を譲ったため、政治の主導権は七人衆が握ることになります。
- トップは守護代の遊佐続光と、筆頭家老の温井総貞の2名で、すぐにこの両者は対立する。
- 1553年(天文22年)、9代・義綱の時代に総貞は続光を追放することに成功した。この時点で続光と伊丹総堅は失脚、平総知は引退したため七人衆のメンバーは入れ替わりがあります(第2次七人衆)。
- しかし1555年(天文24年)に総貞が死去(暗殺の説あり)すると、義綱は続光を呼び戻して、総貞の子である続宗と対抗。続宗は反乱を起こし、3年間包囲されるも、1557年(弘治3年)に鎮圧。この時点でいちおう七人衆体制は終わった。
- 1566年(永禄9年)に義綱は、続光と七人衆では三番手の地位にあった長続連によって追放される。
- その後は七人衆の子孫が「四人衆」として畠山家の実権を握り、10代・義慶、11代・義隆と傀儡政権がつづく(いずれも暗殺の説あり)。
- 家臣団の中で続連の勢力が拡大すると、続光は旧敵である続宗の子の温井景隆を引き込み対抗する。
- 結果、親織田派の続連と、親上杉派の続光・景隆が対立し、落城へと向かいます。