七尾城
54 七尾城

[石川県][能登] 石川県七尾市古屋敷町タ8-1


  • 平均評価:★★★★☆ 3.70(47位)
  • 見学時間:1時間27分(70位)
  • 攻城人数:610(89位)

七尾城の歴史

築城から廃城まで、約170年間にわたる七尾城の歴史を時系列でまとめています。

七尾城の歴史

(1)七尾城のおこり

七尾城は、能登畠山氏が築いた詰(つめ)の城(戦時に立てこもるための城)で、築城時期は不明ですが、15世紀の末頃には使用された形跡があります。
その七尾城を住むための城として大規模に改築したのが、16世紀前半の能登畠山氏第7代当主の畠山義総(よしふさ)でした。義総は府中(現在の七尾市中心部)にあった守護所(守護が住んでいた平地の館)から七尾城に移り、ふもとに城下町をつくって家臣や職人・商人などを住まわせました。
当時畠山家は隣国の加賀一向一揆と対立しており、能登国内にも何度か攻められたこともありました。そのため平地の館よりも防御力に優れた山上の城に住居を構えたほうがよいと考えたようです。

七尾城跡本丸付近を上空から[七尾城]
提供:七尾市教育委員会文化課 | 七尾城跡本丸付近を上空から[七尾城]

(2)七尾城の繁栄

義総は京都から公家や禅僧などの文化人を七尾城に招き、京都の文化を能登に広めました。
七尾を訪れた京都の東福寺(臨済宗)の住持の彭叔守仙(ほうしゅくしゅせん)は『独楽亭記(どくらくていき)』という詩をつくり、山の頂上にそびえる義総の御殿や山麓に広がる城下町、その周りに広がる農村・漁村のながめを絶賛し、当時の畠山家の繁栄ぶりをうたっています。ほかに『独楽亭記』の中では、重臣・温井総貞の屋敷が七尾城山の中腹の大石谷にあったことがうかがえます。
のちに京都で活躍し、安土・桃山文化を代表する絵師となる長谷川等伯(とうはく)もこの七尾の城下町で生まれ育っています。
また城下町の発掘調査では、武家や職人の屋敷跡や生活用品、職人が使っていた道具が出てきています。とくに金の坩堝(るつぼ)(金を溶かすための容器)は、七尾城下町で金の加工がおこなわれていたことを証明しています。

七尾城史資料館の展示

(3)七尾城の変化

七尾城は16世紀半ばの畠山家の内乱の中で大きく姿を変えました(詳しくは「能登畠山氏の歴史」参照)。たとえば村々から材木を徴収して防御用の柵を築いたり、越後の上杉謙信に対して七尾城が堅固になったことを書状で書き送っています。
城下町の発掘調査でも、この時期に城下町に柵で囲われた軍事的な施設が作られたことがわかっています。また城と城下町を堀と土塁で囲って守るための「惣構(そうがまえ)」もこの時に築かれた可能性が高いです。
皮肉にも七尾城が戦国五大山城と呼ばれるほどの山城になったのは、畠山家の度重なる内乱がきっかけだったのです。

(4)七尾城の大改造

1577年(天正5年)に上杉謙信によって七尾城が落とされ畠山家が滅亡すると、謙信は七尾城の改修をおこないますが、ほとんど手を加えなかったようで、数日の内に改修を終わらせています。
1580年(天正8年)に織田家が七尾城を領有すると、翌1581年(天正9年)には前田利家が能登の大名となりますが、利家は越中方面での戦争のためほとんど留守にしていました。
利家による七尾城の本格的な改修がはじまるのは翌年6月に起きた「本能寺の変」以降です。「本能寺の変」に乗じて、越後に逃亡していた温井景隆・三宅長盛ら畠山旧臣が能登に攻め込んできたのです(「荒山・石動山の戦い」として後述)。利家は村々から塀・柱用の材木を出させたり、七尾城改修のために百姓たちを召集したりしています。
翌1583年(天正11年)に利家は金沢城に本拠を移しますが、城下町の再編はつづけたようで、城下町の範囲を拡大し、大手道の道幅を大きくしたり、新たな寺院を建てたり、大手道を新しく西側に付け替えてあらたな町をつくったりしています。

(5)小丸山城の築城と七尾城の廃城

1584年(天正12年)の「末守城(末森城)の戦い」で越中の佐々成政(さっさなりまさ)を撃退し、軍事的脅威が薄れると、軍事的には有利でも交通が不便であった山城の七尾城に本拠を置きつづける理由が薄れてきました。
そこで利家は能登の経済・交通の中心地であった府中の隣町の所口に本拠を移すことを決め、1585年(天正13年)に城下の寺院の移転をはじめました(山の寺寺院群の成立)。そして同年に佐々成政が羽柴秀吉に降伏し、前田家に越中の西三郡(射水・砺波・婦負)が与えられ、軍事的脅威が完全になくなると、翌1586年(天正14年)から小丸山城の築城と本拠の移転を本格化します。
その後、1591年(天正19年)までには城下町の移転がほぼ完了し、七尾城はその歴史的役割を終えました。城下町の大部分は農地となりましたが、城山への立ち入りは禁止され、有事の際には七尾城を再び改修して使用できるようにしていたようです。
小丸山城の築城は1582年(天正10年)といわれることが多いのですが、根拠となる古文書が怪しいことや前田利家が置かれた政治状況、天正10年以降も七尾城が使用されていた記述が古文書にみえることから、早くても1586年(天正14年)以降という説が最近は有力です。

七尾城の歴史・沿革

西暦(和暦) 出来事
1514年(永正11年)前年からの能登の内乱で七尾の地名がはじめてあらわれる。
1515年(永正12年)内乱が終結。畠山義元が死去し、義総が当主となる。この頃に府中の守護所から七尾城に本拠を移す。
1517年(永正14年)京都の公家の冷泉為広がはじめて七尾城を訪れる。以後約30年間にわたって多くの文化人が七尾城を訪れる。
1544年(天文13年)京都東福寺住持の彭叔守仙が『独楽亭記』で七尾城と城下の情景を詩にする。
1545年(天文14年)畠山義総が死去、畠山義続が当主となる。
1550年(天文19年)遊佐続光・温井総貞ら七頭が反乱を起こし、七尾城を包囲する。
1551年(天文20年)畠山義続が出家して七尾城を明け渡し、七頭と和睦。畠山七人衆が成立する。
1553年(天文22年)遊佐続光が反乱を起こし、敗れて越前に逃亡。畠山七人衆のメンバーが入れ替わる。
1555年(弘治元年)温井総貞が死去する。遊佐続光の帰国後に温井続宗らが反乱を起こし、七尾城を包囲する。
1558年(永禄元年)七尾城軍が包囲を破り、温井続宗らの拠点勝山城を落とし、続宗らを討ち取る。
1560年(永禄3年)温井軍が能登から撤退し、畠山義綱が当主としての活動を本格化する。
1566年(永禄9年)遊佐続光・長続連ら重臣が畠山義綱を追放し、幼少の畠山義慶を当主とする。
1567年(永禄11年)畠山義綱が上杉家の支援で能登帰国をはかり、七尾城に迫るも撤退。
1574年(天正2年)畠山義慶が毒殺され、弟の畠山義隆が当主となる。
1576年(天正4年)上杉謙信の第1次能登出兵。七尾城を包囲する。
1577年(天正5年)上杉謙信の第2次能登出兵。遊佐続光の寝返りにより七尾城は落城し、能登畠山氏は滅亡する。
1580年(天正8年)畠山旧臣が上杉軍を能登から追放し、織田家に七尾城を明け渡す。七尾城には菅屋長頼が入る。信長の命で遊佐続光・盛光父子が殺害され、温井景隆・三宅長盛らは越後へ逃亡する。
1581年(天正9年)前田利家が信長から能登一国を与えられ、七尾城に入る。
1582年(天正10年)荒山・石動山の戦いで前田利家・佐久間盛政の連合軍と温井景隆・三宅長盛・石動山の僧兵の連合軍が戦い、温井・三宅は戦死。石動山も焼き討ちにされる。
1583年(天正11年)前田利家が賤ヶ岳の戦い後、羽柴秀吉から加賀北部を与えられ、金沢城に本拠を移す。七尾城には利家の兄の前田安勝が入る。
1585年(天正13年)七尾城下の寺院の所口町への移転がはじまる。越中の佐々成政が秀吉に降伏し、小丸山城への引っ越しが本格化する。
1591年(天正19年)この頃までに小丸山城への移転がほぼ終わり、七尾城は廃城となる。
1596年(文禄5年)七尾の城下町の小丸山城下への移転が完了する。
このページに記載してある内容の大半は、(公財)石川県埋蔵文化財センターの川名俊さんに寄稿していただきました。ありがとうございます!
   
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