七尾城の石垣については、2010年度(平成22年度)から5年にわたって石垣など地表にみえる(石材の使用)箇所の位置や規模が調査されました。
現時点でわかっていることなどを以下にまとめます。
- 石垣は野面積みで築造され、用いられる岩石種は、花崗岩(かこうがん)と流紋岩(りゅうもんがん)が大半で、わずかに安山岩がみられる
- 使用されている石は城山一帯の地層を構成する城山礫岩(れきがん)層に含まれる岩石で、おもに山麓にかけての谷筋の沢から運ばれたと考えられる
- 高さが2mをこえる規模が大きい石垣は本丸から二の丸にかけての斜面で見られる
- 本丸北側、桜馬場北側・北西側・南側、温井屋敷西側の段状に築造された石垣は、犬走りを設けなかがら積み上がっており、裏込石は確認できない
- 石垣の大半は積み直しであり、当時のままではない(とくに遊歩道沿いの石垣はほとんどが積み直し)
- あくまでも積み直しであり、江戸期の絵図にはほぼ同位置に石垣が描かれているので、当時は石垣が存在していたと考えられる
- 桜馬場および温井屋敷の西斜面(二の丸との間)、三の丸の石垣は比較的旧状を維持している
- 西の丸櫓台、二の丸の石垣は縄張りから前田利家による築造と考えられ、利家が七尾城に入城直後、1581年(天正9年)頃に築かれたと推定される
- 温井屋敷の西斜面と二の丸の東側通路の2か所だけ、切石を使用して裏込石を伴った算木積みの石垣が確認されており、前田利家の入城後に構築されたと思われる(金沢城の支城である石川県白山市の舟岡城の石垣と形式が一致する)
- 前田氏時代の石垣は本丸から三の丸を中心とした主要曲輪群周辺に多数残っており、入城直後の1581年(天正9年)だけでなく、1582年(天正10年)以降にも構築されていると考えられる
参考資料:『史跡七尾城跡石垣調査報告書』(2015年3月、七尾市教育委員会)、『能登中世城郭図面集』(2015年8月、佐伯哲也)