七尾城
七尾城

[石川県][能登] 石川県七尾市古屋敷町タ8-1


  • 平均評価:★★★★☆ 3.86(--位)
  • 見学時間:1時間15分(--位)
  • 攻城人数:1635(96位)

七尾城の戦い(七尾城をめぐる戦い)

上杉謙信が落城させた「七尾城の戦い(第一次、第二次)」など、七尾城を舞台とした戦いについてまとめました。

七尾城をめぐる戦い

七尾城は上杉謙信によって攻め落とされる以前から、何度も内乱の舞台となっています。

(1)能登畠山氏の内乱

1.永正の内乱

1513年(永正10年)、能登国で突如大規模な内乱が起きました。誰が乱を起こしたかなどの詳細はまったく不明ですが、当時京都で11代将軍の足利義稙(よしたね)のそばに仕えていた当主の畠山義元(よしもと)は帰国を余儀なくされました。この内乱ではじめて七尾の名前が出てきており、詰の城であった七尾城に籠城するほど激しい戦いであったことがうかがえます。
最後は次期当主の畠山義総(よしふさ)が調停をし、1515年(永正12年)に内乱はようやくおさまりました。内乱終結後すぐに義元が亡くなり、義総が当主となり、まもなく府中の守護所から七尾城に本拠を移しました。

2.七頭の乱

1550年(天文19年)7月に第8代当主の畠山義続(よしつぐ)の政治に不満を持った家臣たちが温井総貞(ぬくいふささだ)・遊佐続光(ゆさつぐみつ)を大将として反乱を起こしました。ふたりを含めて反乱を起こした家臣のうちの主要な者は「七頭」と呼ばれ、兵力に劣る義続はあっという間に七尾城に追い込まれました。
義続は国内の領主たちを動員したり、中央の権力者であった六角定頼(ろっかくさだより)や細川氏綱(ほそかわうじつな)を通して隣国の加賀一向一揆を束ねる石山(大坂)本願寺に調停を依頼したりしましたが、うまくいきませんでした。けっきょく、翌1551年(天文20年)2月には七頭軍が七尾城内にまで攻め寄せ、七尾城の後ろの守りでもあった石動山も七頭軍に占領されたため、義続は降伏を余儀なくされました。義続は出家し、義続に味方した家臣数十人が切腹することで七尾城は明け渡され、約8ヶ月に及んだ戦乱は終わりました。七頭のメンバーも戦乱の責任を取って髪を落としました。
まもなく義続は隠居して子の義綱に当主の座を譲りましたが、義綱はまだ幼かったため、七頭が「畠山七人衆」(遊佐続光・温井総貞・長続連(ちょうつぐつら)・平総知(たいらふさとも)・三宅総広(みやけふさひろ)・伊丹続堅(いたみつぐかた)・遊佐宗円(ゆさそうえん)の7人)として畠山家の政治を取りしきるようになりました。

3.遊佐・温井両派の対立

「畠山七人衆」の成立後、そのリーダーであった遊佐続光と温井総貞が争いはじめました。この争いは温井総貞が勝利し、1552年(天文22年)7月に遊佐続光と彼を支持する一派は能登から加賀に亡命し、12月に加賀一向一揆や河内畠山氏の援軍を得て能登に進攻し、七尾城から三里(約12km)ほど離れた大槻(中能登町大槻)に布陣します。
しかし、七尾城から出撃した温井続宗(つぐむね)(総貞の子)率いる軍勢に敗れ、田鶴浜(七尾市田鶴浜)に退きます。さらに加賀に撤退する途中で一宮(現在の羽咋市一宮)で追撃を受け、遊佐源五・安見紀兵衛らの河内衆や七人衆のメンバーであった伊丹続堅ら2000人以上が討ち取られ、続光自身は越前(現在の福井県)に亡命しました。これによって「畠山七人衆」の内の遊佐派のメンバーは没落し、一方で七人衆を抜けて上位に立った温井総貞が絶大な権力を持つようになりました。

その総貞が1555年(天文24年)6月までに死去した(暗殺とも)ことで、七人衆に権力を奪われていた畠山義続は巻き返しを図ります。温井派に対抗するため、遊佐続光とその一派を許して呼び戻したのです。
これに危機感を感じた温井派は、同年7月に温井家当主であった温井続宗を中心に加賀へ亡命し、畠山一族の畠山晴俊(はるとし)を大将にかつぎ上げて加賀一向一揆の援軍を得て能登に進攻します。このときは能登国内の浄土真宗を信仰する人々が多く温井方に味方したこともあって、畠山義続ら七尾城方は苦戦しました。
温井軍は勝山城(中能登町芹川)を拠点に3年間もの長期間、七尾城を包囲しました。その後、七尾城方は越中の椎名氏や越後の上杉謙信の援助を得て、1558年(永禄元年)に勝山城を陥落させ、畠山晴俊・温井続宗らを討ち取りました。その後は七尾城方が優勢となり、1560年(永禄3年)にようやく温井方を国外に追いやることに成功しました。

4.畠山義綱の入国戦

温井氏の反乱を退けた後、成長した当主の畠山義綱が大名中心の政治を復活させました。義綱は側近の奉行人(官僚)を重用して大名権力と領国支配の強化をしていきます。しかし、義綱の強引な政治に反発した重臣たちによって1566年(永禄9年)に追放されてしまいます。
1568年(永禄11年)、義綱は越後の上杉謙信の力を借りて七尾城を奪い返そうと試みます。謙信は越中の椎名氏の反乱により撤退を余儀なくされましたが、義綱はそのまま能登国内に進攻し、「玉尾城」(中能登町武部が推定地)や「神明之地」(城山展望台付近が推定地)を落とし、「府中池田要害」(七尾市城山運動場が推定地)を占領し、七尾城に迫りましたが、「神明之地」で不慮の事態があったらしく、撤退を強いられたようです。
その後も義綱は何度も入国を試みますが、けっきょく果たせず、1593年(文禄2年)に近江国余呉(現在の滋賀県長浜市)で死去したといわれています。

(2)上杉謙信の能登出兵と畠山家の滅亡

1.謙信進攻前の北陸情勢

畠山義綱を追放した家臣たちは、義綱の子でまだ幼かった義慶を当主とし、再び政治の実権を握りました。とくに上杉家と手を結ぶ遊佐続光・盛光(もりみつ)の父子、加賀一向一揆と結ぶ温井景隆(ぬくいかげたか)、織田家と結ぶ長続連(ちょうつぐつら)・綱連(つなつら)父子が七尾城内で大きな力を持っていました。彼らは義慶が成長して対立すると、1574年(天正2年)に義慶を毒殺し、弟の義隆を当主とするなど畠山家を完全に意のままにしていました。
そんな中で北陸の政治情勢が大きく変化します。当時天下人となりつつあった織田信長は石山(大坂)本願寺と戦っていましたが、その本願寺が上杉謙信に助けを求めました。謙信と本願寺(とその支配下にあった加賀一向一揆)は長年対立していましたが、謙信はその要請を受けて1576年(天正4年)5月、本願寺と同盟を結び、信長と戦うために京都をめざします。謙信は9月に越中を平定し、能登に迫りました。

2.第一次能登出兵

畠山家では上杉家に味方するか織田家に味方するかで意見がわかれますが、けっきょく結論が出なかったようで、かねてより畠山家の態度に不信感を抱いていた謙信は能登出兵を決意します。謙信の能登出兵の理由として、ほかに上条政繁(謙信に仕えていた能登畠山一族)による畠山家再興の願いに応じたため、日本海の交通や流通の支配のためなどの説もあります。
1576年(天正4年)11月、上杉軍は加賀・越中の2方面から押し寄せ、諸城を落として七尾城の攻略にかかります。謙信は七尾城の南に位置する石動山に城を築き、直江景綱(なおえかげつな)・河田吉久(かわたよしひさ)・吉江資堅(よしえすけかた)らを城将として配置します。その他にも熊木城(七尾市中島町)に三宝寺(さんぽうじ)平四郎・斎藤帯刀(たてわき)・七杉小伝次、富来城(現在の羽咋郡志賀町八幡)に藍浦長門(あいうらながと)、穴水城(穴水町)に長沢光国(ながさわみつくに)ら、甲山城(穴水町甲)に轡田肥後(くつわだひご)・平子和泉(たいらくいずみ)、正院城(珠洲市正院町)に長景連(ちょうかげつら)を配置したといわれています。
謙信自身は石動山城に布陣していたとも、天神河原(七尾市天神川原町)に布陣していたともいわれていますが、翌1577年(天正5年)3月、関東情勢が不安定であったため一度越後に撤退し、関東に出兵します。

3.第二次能登出兵

謙信が越後へ帰ったあと、畠山家臣たちは熊木・富来の両城を奪回し、穴水城を包囲しますが、閏7月に謙信が再び能登に出兵すると、畠山軍は勢いづいた上杉軍に逆襲され、七尾城に逃げ帰ります。
謙信は天神川原に布陣し、再び七尾城を包囲しました。七尾城では大手赤坂口を長綱連・連龍(つらたつ)兄弟および平堯知(たいらたかとも)ら、搦手大石谷を温井景隆・三宅長盛(みやけながもり)兄弟、木落口を遊佐続光・盛光父子らがそれぞれ守ります。
謙信の一時撤退後に畠山家は織田家に救援を求めていましたが、いまだ動きはありませんでした。さらに悪いことに、七尾城内では病気が広がり当主・畠山義隆をはじめとして七尾城内にいた多くの人が死んだため、士気は衰えており、刻一刻を争う状況でした。そこで織田派の中心であった長綱連の弟の連龍が信長へ再度援軍を求めるため安土へ向かいました。連龍の要請を受けた信長は柴田勝家(しばたかついえ)・羽柴秀吉(はしばひでよし)(のちの豊臣秀吉)らを援軍として能登へ向かわせました。

4.七尾落城

9月になり、七尾城内では上杉派の中心であった遊佐続光が上杉軍へ降伏するべきだと主張をしはじめます。それに同意した温井景隆・三宅長盛は長綱連に降伏するよう説得しますが、織田家の援軍到来を信じる綱連はこれを拒否します。
しびれを切らした続光は上杉軍への寝返りを決め、綱連の父の続連を屋敷に招いて殺害してしまいます。大手口を守備していた綱連も温井軍によって討たれ、上杉軍が七尾城内になだれ込んできました。
こうして長連龍をのぞく長一族は殺害され、七尾城はついに落城しました。
謙信は故畠山義隆の妻(公家の三条氏の娘)を家臣の北条景広(きたじょうかげひろ)の妻とし、義隆の子(春王)は謙信の養子にすることにして越後へ連れて帰り、七尾城には家臣の鯵坂長実(あじさかながざね)を残すことにしました。数日の内に七尾城の改修を終えた謙信は越後へ帰りました。

謙信が落城直後(あるいは落城直前)に「霜は軍営に満ちて秋気清し......」と七尾城の絶景と能登を攻略した気持ちを詠んだといわれる詩が残っていますが、じっさいに家臣にあてた書状の中で「数千人が籠っていた名高い七尾城をこのように落としたことは、都鄙(都会と田舎、つまり天下)の評判もよく、老後の名誉である」と述べており、謙信は天下に名高い七尾城を攻略したことを非常に喜び、名誉に思っていたようです。
一方で、柴田勝家率いる織田家の援軍は落城後にようやく加賀の水島(現在の石川県白山市)まで到着しますが、時すでに遅く撤退を迫られました。この時、謙信は織田軍を追撃しており、織田軍は多数が討ち取られた上、加賀の湊川(現在の手取川)に追い込まれて大量の溺死者を出したといわれています(手取川の戦い)。

荒山・石動山の戦い

1580年(天正8年)に上杉軍を能登から追い出した畠山旧臣が織田家に降伏し、七尾城には信長側近の菅屋長頼(すげのやながより)が入りました。信長は長頼に命じて七尾城以外の城を廃城にし、親上杉派であった遊佐続光・盛光父子を殺害させます。信長の書状によれば、遊佐父子を直接殺害したのは、七尾落城時に一族を皆殺しにされた長連龍だったようです。次は我が身と危機感を覚えた温井景隆・三宅長盛らは越後の上杉景勝の元へ亡命しました。
その後、七尾城には信長から能登一国の統治を任された前田利家が入りました。

しかし、1582年(天正10年)6月2日に「本能寺の変」で信長が明智光秀に討たれると、これをチャンスと見た温井景隆・三宅長盛ら畠山旧臣は上杉家の援助を得て約3000人の兵を率いて能登国を奪い返しに来ました。
温井・三宅軍は海路で能登に入って石動山に登り、信長に領地の大半を没収された石動山の僧兵たちを味方につけ、石動山の南の要害である荒山砦(中能登町・氷見市)の改修にかかります。一方、前田利家は「本能寺の変」と温井景隆らの能登帰国の噂を聞くと、急ぎ七尾に帰り、越前の柴田勝家と金沢城の佐久間盛政(さくまもりまさ)に援軍を頼みます。また七尾城の改修を急ぎました。

利家の援軍要請を受けた佐久間盛政は2500人の兵で高畠(中能登町)まで進軍し、利家も約2600人の兵で石動山と荒山の間の柴山に布陣します。
そして7月(一説には6月とも)24日、ついに両軍が激突しました。最初は高所に陣取っていた温井・三宅軍が優勢でしたが、前田軍の長連龍の奇襲により分断され、温井軍と前田軍、三宅軍と佐久間軍がそれぞれ戦闘となります。温井軍は大将の温井景隆が味方を見捨てて三宅軍と合流しようとしたところを佐久間軍の拝郷五左衛門に討ち取られ、壊滅します。
一方、佐久間軍に追い込まれた三宅軍は石動山に逃れますが、26日に佐久間・前田両軍の猛攻を受け、大将の三宅長盛が佐久間軍の堀田新左衛門に討ち取られ、三宅軍・上杉軍や石動山の僧兵も多く討ち取られました。
この戦闘で前田軍は寺院の建物に放火し、北陸の比叡山と呼ばれた石動山はことごとく焼け落ちました。
そして能登畠山氏の重臣として威勢を誇った温井家・三宅家も滅亡しました。

このページに記載してある内容の大半は、(公財)石川県埋蔵文化財センターの川名俊さんに寄稿していただきました。ありがとうございます!
   

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