標高305メートルにある七尾城本丸跡には大きな城址碑と案内板、そして城山神社があります。
本丸の広さは平坦面で32m×54mとそれほど大きくはありません。また本丸に隣接する曲輪である長屋敷との間には大堀切があり、独立性の高い曲輪となっています。
現在の登城ルート(七尾湾側からのぼるルート)は大手ではありません。
当時の大手は本丸西南に位置しており、ここには外枡形虎口がありました。「外枡形」は織田信長が安土城黒鉄門ではじめて用いたとされており、信長の家臣であった前田利家が1581年(天正9年)に改修した可能性が指摘されています。
また、1544年(天文13年)に京都・東福寺の禅僧である彭叙守仙(ほうしゅくしゅせん)が、畠山氏の重臣・温井総貞の招きに応じて七尾城を訪れた際の記録を書いた『独楽亭記』によれば、この本丸には御殿があったことが言及されています。
同書によれば「朱や青が塗り重ねられて一際美しく、青空や雲に梯子をかけたようで、これぞまさしく蓬莱山の仙人の住居でなければ、きっと夜摩・観史の天宮に違いない」と述べられており、山頂に壮麗な御殿が存在していた根拠となっていますが、この御殿が畠山氏の居館だったかは不明です。
七尾城は冬季には2mをこえる積雪があり、七尾湾に面しておりたえず強風にさらされていたことが想定されるため、あくまでも来賓の接待や連歌会など特別な行事の際にだけ使用する迎賓館だった可能性があります。
また居館だったとしても季節限定で冬季は山麓におりていたと考えるのが一般的です。
本丸跡からは七尾湾や奥能登を一望できます。
本丸に建つ巨大な「七尾城址碑」は旧道を使って山麓から人力で引き上げたそうです。
揮毫は松波城主・畠山家の末裔である畠山一清氏の筆によるもので、上杉謙信の居城である春日山城に向けて建てられています。
また少し高くなったところにある城山神社は、1942年(昭和17年)に開催された「第1回城山祭り」の際に建立されたそうです。鳥居は1973年(昭和48年)に建てられました。
この高台は櫓台とされており、当時は西南東の三方向に向けた大型の櫓が築かれいたと推定されています。ただし手前に長屋敷があったため、尾根伝いの見通しは良くなかったと思われます。
現地に設置されている案内板です。
本丸跡(ほんまるあと)
七尾城跡の中心となる曲輪(くるわ)。東西の長さが五〇m、南北の長さが四〇mあり、二の丸までの一連の曲輪とともに主郭(しゅかく)を構成する。
The main enclosure site.
石垣は、戦国期の山城に多い「野面積み」の工法を用い北側は三段に組まれている。