七尾城
七尾城

[石川県][能登] 石川県七尾市古屋敷町タ8-1


  • 平均評価:★★★★☆ 3.61(--位)
  • 見学時間:1時間1分(--位)
  • 攻城人数:1695(99位)

二の丸

二の丸は本丸を中心とした主郭部の最北端に位置する曲輪です。
さらに北側に位置する三の丸との間には幅40mの大堀切を設けています。

先端(北端)には櫓台を設けて三の丸、さらには城下を見張ることができるようになっていますが、現在は視界がさえぎられています。

現在、散策ルートは三の丸とつながっていますが、このルートは三の丸の独立性を低くし、本丸との連絡を容易にするために前田利家が構築したという説もあります。

櫓台の近くに案内板が設置されています。

史跡 七尾城跡(ななおじょうあと)
昭和九年一二月二八日指定 文部省告示第二三九八号

七尾城は、室町幕府の将軍を補佐する管領(かんれい)職を勤めた畠山氏の有力庶流(しょりゅう)として、応永(おうえい)一五年(一四〇八)に独立した能登畠山(のとはたけやま)氏(能登国守護)が、戦国時代(一六世紀初頃)に能登府中(守護所)にかわる新たな拠点として築いた山城です。
七尾城は、標高約三〇〇mの山頂部に所在する本丸を中心として、北側の山麓までのびる尾根一帯を造成して、曲輪(くるわ)(屋敷地)を多数築いています。
こうした、曲輪が築かれている尾根が七つ(筋)あることが、七尾の地名の由来と言われております。

現在地は、七尾城の中心部北端に位置する「二の丸」と呼ばれる曲輪です。本曲輪は尾根を大規模に造成し、南側斜面に石垣を二段積上げておりますが、このような造成段による曲輪を計画的に多数連ねていることが七尾城の特徴で、その規模と構造は、国内でも屈指とみられています。
また、七尾城の麓には京都の禅僧が天文一三年(一五四四)に記した『独楽亭記(どくらくていき)』にみる、千門万戸(せんもんまんこ)の家々が軒を連ねる城下「七尾」が連続して形成されていたことが明らかにされ、山上の山城と山下の城下が一体となる北陸を代表する戦国都市であったことも確認されています。国宝「松林図屏風(しょうりんずびょうぶ)」を描き、画聖とうたわれた長谷川等伯(はせがわとうはく)は、天文八年(一五三九)に京風の畠山文化が開花する七尾に生まれ、その才能を育んでいます。
平成一八年四月には、県内では金沢城とともに「日本100名城」に選ばれています。平成一八年七月一日
提供:七尾市教育委員会文化課(赤丸は攻城団が加筆)
   

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図説 近世城郭の作事 櫓・城門編

三浦先生が書かれた「近世城郭の作事 天守編」に続き、今回は「櫓・城門・土塀」編を読みました。特に、城門、土塀については書いてあることのほとんどが初めて知る事でした。城門の種類ですが、薬医門は安土桃山時代だけで、高麗門は文禄・慶長の役で朝鮮半島での築城時に発明され、構造は薬医門と変わりませんが屋根が小さいので防戦上で有利、屋根が小さいので用材が少なくて済むなど、関ヶ原の戦い後、薬医門から進化した高麗門に取って代わられたそうで、現在城跡に残っているのは圧倒的に高麗門で、医薬門は少ないとの事です。また、関ヶ原以前の櫓門では石落がないので、櫓門の石落は関ヶ原以降の発明と考えられるとの事を初めて知ります。土塀についても、付壁塀、築壁塀など色々な種類があるそうで、天守、櫓以外に城門、土塀にも注目することにより、新たなお城巡りの楽しみを再発見させてもらえた一冊だと思います。

まーちゃんさん)

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