七尾市教育委員会によって作成された七尾城跡の散策ガイドです。
1.七尾城跡の概要
七尾城跡は、能登国の守護・畠山氏(1408―1577)が16世紀前半(戦国時代)に築いた城館跡で、全国でも屈指の規模を有します。石動山系に築かれた城域は南北約2.5km、東西約0.8km、面積は約200haに及び、一帯は「城山」と呼び親しまれています。
山上から山麓までの自然地形を巧みに利用し、七尾の地名の由来となった七つの尾根筋を中心に多数の曲輪(屋敷地)を連ね、山麓には城下の町並みが形成され京風の能登畠山文化が華やぎました。
天正5年(1577)の上杉謙信の攻撃によって落城、169年にわたる畠山氏の領国支配の幕が閉ざされました。落城後の七尾城は、一時、上杉方が入り、その後、天正9年(1581)に織田信長から能登一国を与えられた前田利家が入城します。天正10年(1582)から17年(1589)頃に、港に近い小丸山での新たな築城により、七尾城は城としての機能を失うこととなりました。
能登畠山氏
足利一門の有力武士で、越中の守護を務めていた畠山基国(はたけやまもとくに)が室町時代の初めの明徳2年(1391)に能登の守護に任命され、その後、河内、紀伊の守護も兼務しました。応永5年(1398)には室町幕府の管領(かんれい)に起用され、斯波(しば)氏・細川氏と三管領の一つとしての地位を築いています。
能登畠山氏は、基国の次男・光慶(みつのり)が、治めていた四か国(河内・越中・紀伊・能登)のうち、応永15年(1408)に能登国のみの守護となったことをはじまりとします。当時、守護は在京し、領国では守護代の遊佐(ゆさ)氏が府中の守護所(現在の市街地付近)で政務にあたっていました。
応仁・文明の乱(1467―1477)後の文明10年(1478)に、守護・畠山義統(よしむね)が能登に下向、在国し分国経営の基礎を固めました。7代義総(よしふさ)のとき、領国経営は安定し、公家(くげ)や歌人などの多くの文化人が、都から七尾に訪れました。府中の義統邸や七尾城内の義総邸では、たびたび和歌や連歌(れんが)の会が催されました。