本丸のすぐ下の曲輪が重臣であった遊佐氏の屋敷跡と伝えられています。
遊佐氏は南北朝時代に畠山氏が奥州探題となって赴任した頃からその重臣となり、一族はそれぞれ出羽国、河内国、能登国、越中国にわかれ、能登国では遊佐秀頼(ゆさひでより)、遊佐続光(ゆさつぐみつ)が当主を傀儡化して、専横のかぎりを尽くしたとされます。
ほぼ中央に一辺11m、高さ0.8mの基檀(建造物をその上に建てるためにつくった土盛りや石積みのこと)があり、礎石列も存在していますが、ここにどんな建物があったかは不明です。
なお石積みが崩れているのはイノシシが餌を探して掘り返すからだそうです。
遊佐続光は親上杉派として、親織田派であった長続連と対立することになりますが、1577年(天正5年)の「第二次七尾城の戦い」で能登に侵攻してきた上杉謙信に内応し、続連の一族をことごとく殺害すると、謙信に降り能登の実権を手に入れました。
しかし翌年に謙信が没すると、ふたたび織田軍が能登に侵攻し、続光はすぐに降伏しましたが、信長は長一族を殺した罪を許さず、処刑されました。
遊佐屋敷跡
この曲輪(くるわ)は、本丸のすぐ西側に接し、七尾城跡の中心部にあることから城主に次ぐ守護代の(しゅごだい)の地位にあった遊佐氏の屋敷跡と伝えられている。