七尾市教育委員会文化課によって作成された七尾城の公式パンフレットです。
能登畠山(のとはたけやま)氏とは
足利一門の有力家臣であった畠山基国(もとくに)が能登国守護職に任ぜられたのは、今からおよそ600年前の室町時代の初頭でした。基国は能登のほかに河内・越中・紀伊三ヶ国の守護職を兼務しており、また室町幕府の管領(かんれい)の地位にも就いた大物でした。 能登畠山氏は、基国の次男満慶(みつのり)が応永十五年(1408)に畠山氏が治めていた四分国のうちの能登一国を割いたことをはじまりとします。そして、満慶以後義隆(よしたか)まで、十一代、七尾城が落城する天正五年(1577)までの169年間にわたり能登を治め、都(京)文化を礎としながら地域に根ざした独自の能登畠山文化を繰り広げました。七尾城跡中心部の縄張り
七尾城は、もっとも大規模な戦国期拠点城郭(きょてんじょうかく)であるとともに、戦国期と織豊期(織豊期)のもっともすぐれた山城構造の全貌(ぜんぼう)を知ることができる城跡だと評価できる。史跡としての価値はきわめて高い。さらに、七尾城は単なる立て籠(こ)もりの砦(とりで)ではなく、日常的な政治活動や生活をし得た拠点城郭であり、多数の屋敷地が集結した壮大な城郭構造は、まさに「山上都市(さんじょうとし)」として七尾城が機能したことを示している。千田2002「七尾城跡保存管理計画書」より