ひさしぶりに攻城団テレビに動画を公開しました。2024年一本目です。
今回は南部氏の歴史について榎本先生に教えていただきました。南部氏は東北地方の戦国大名ですが、甲斐源氏の流れを汲む南部光行を祖としており、もともとは甲斐国の武士でした。
その後、陸奥に本拠を移し、南部晴政の時代に最盛期を築くも、南部氏の一族とされる大浦為信の独立があり、さらに(こちらは確実に南部一族である)九戸政実の乱などの紆余曲折を経て、豊臣政権さらには江戸時代と生き抜いて明治を迎えます。
また大浦為信は津軽氏を名乗ってこちらも近世大名として明治まで続くなど、同じ一族からふたつの戦国大名・近世大名を輩出した珍しい武家でもあります。
個人的には御城印を通じた連携企画「南部お城めぐり」(南部御城印プロジェクト主催)のニュースを毎年取り上げていて、南部氏に興味があったので楽しみでした。
いつものように長時間の動画ですが、今回は以下の三部構成でまとめてみたので、少しずつ見ていただいても良いかと思います。
第1章:南部氏のルーツは複雑怪奇!
第2章:戦国時代南部氏の混乱と三すくみ
第3章:江戸時代の南部氏
南部氏についてはわからないことが多いそうです。
というのも1539年(天文8年)には三戸城、1636年(寛永13年)には盛岡城と、その当時の本拠がそれぞれ火災に見舞われて記録が失われていることと、(これは徳川家などもそうですが)宗家・嫡流が何度か交代しているので江戸時代に改ざん・創作された可能性が高いためです。
ただ「よくわからない」で終わらせず、歴史家の先生方による研究の成果で「わかってきたこともかなりある」そうなので、今回は南部氏の歴史についての大きな流れとあわせて近年の研究で明らかになったことも紹介しました。
たとえば「三日月の丸くなるまで南部領」という有名な言葉も明治時代までしかさかのぼれないらしく、戦国時代や江戸時代に語られた言葉ではなさそうだとか、加賀美二郎遠光の三男・光行が奥州藤原氏の討伐に参加し、その戦功により源頼朝から陸奥国内に所領を与えられて入国し、彼の息子五人が各南部庶家の祖となり、本妻の子である実光の三戸氏が宗家となったという話も現在は否定されているそうです。
榎本先生には今回、当時の南部領に存在する地元の資料館や教育委員会に問い合わせていただき、またXで南部氏関連の投稿をよくされていた帆船ハッカさんに監修もお願いしながら、情報を整理していただきました。
『青森県史』や『戦国の北奥羽南部氏』(熊谷隆次、デーリー東北新聞社)なども参考になったそうです。
南部氏はいつから奥州に?
通説の頼朝云々の話は先の通り否定されているのですが、ではいつ陸奥に入ったのか。
最新の研究によれば、建武の新政の頃には確認できるそうです。南部師行(もろゆき)と南部政長の兄弟が、北畠顕家の陸奥国下向に従って奥州へ入り、糠部(ぬかのぶ)郡八戸に根城を築きました。
ただそれより前、鎌倉幕府滅亡以前に南部師行の弟・政長が新田義貞の軍に参陣した記録があることから、鎌倉末期には陸奥国内に所領を持っていた可能性が高いと考えられています。
北畠顕家(きたばたけ あきいえ)
南北朝時代の公卿、武将。
文保2年生まれ。北畠親房の長男。建武の新政下、16歳で陸奥守となる。鎮守府将軍となって足利尊氏を九州に敗走させる。建武5年、高師直軍に敗れ、和泉石津で戦死。享年21歳。
南部氏の奥州入りについては、①鎌倉時代初期説、②鎌倉時代後期説、③建武の新政・南北朝時代説とありますが、鎌倉時代後期の糠部郡は執権北条氏の所領(得宗領)で、南部氏は北条氏と関係が深かったので代官として糠部郡に来ていたと考えるのが妥当ではないか――つまり②が有力ではないかと榎本先生はおっしゃってました。
また鎌倉幕府の滅亡の際、主のいなくなった糠部郡一帯を南部氏が支配するようになったのではないかと。
宗家の交代
南部氏は八戸を拠点として、各地に一族を派遣しました。
背景として糠部郡が日本で一番大きい郡ということもあり、分割統治しなければならなかった点も大きそうです。このことは各家の独立性が強まった理由でもありますし、のちの混乱の原因にもなります。
ただ大きな争いに発展することはなく(それはもう少し後の話)協力しあったり対立したり「一揆」的なゆるやかな連合体としてやっていたようです。
一揆(いっき)
日本中・近世社会に固有な武士・農民の結合および行動様式。「揆 (き) を一 (いつ) にする」意から、一致団結することを意味するようになり、一致した集団行動に対して用いられるようになる。
日本大百科全書(ニッポニカ)
師行は北畠顕家に従って転戦を続けますが、高師直(こうのもろなお)の軍勢に敗れると、顕家とともに討死します。当主の座は弟・政長が受け継ぎ、八戸南部氏として続きます。
つまり当初は八戸南部氏が宗家だったわけですが、やがて三戸南部氏に宗家は交代します。このあたりもタイミングなどは曖昧なのですが、1366年(貞治5年)に大膳権大夫(たいぜんごんのだいぶ)という重要な役職に三戸南部氏が就いていたことから、この頃には三戸南部氏が主流だったようです。
ただ宗家が三戸に移ったといっても、その後も八戸南部氏は「八戸」を姓として名乗りつつも、奥州探題・大崎氏とも直接やり取りをするなど、ある程度の独立性を持ち続けたようです。
(『県史 青森県の歴史』には「二つの南部」と表現されていました)
斉藤利男先生の論文「三戸南部氏と八戸南部氏――南部氏系譜の謎を解く」によれば、『八戸伝記』にある〈南北朝の合体の時に足利将軍家に降伏した八戸が三戸に宗家の地位を譲り、まだ甲斐にあった所領を放棄して八戸に移った〉という話は後世の創作で、宗家交代は三戸南部氏の師行―政長―信政(のぶまさ)―信光(のぶみつ)と続く中、信光がまだ幼くて南部一族全体を率いる力がなかったため、三戸南部氏の「南部信濃守」と呼ばれる人物が代わりに宗家の椅子に座った、とのことです。
ただこのあたりはまだ不確定のようで、青森県史の担当者からは上記のとおり14世紀後半には三戸南部氏の勢力がすでに八戸南部氏を上回っていたという見解もある一方で、「八戸南部氏の勢力が16世紀の初めまでは三戸南部氏を上回っていた」という見解もあると教えていただきました。
いずれにせよ、16世紀初頭にはほぼ確実に三戸南部氏が宗家の地位にあったようです。
三戸南部氏の戦国大名化
三戸南部氏は南部信時(のぶとき)や政康(まさやす)の時代、すなわち15世紀後半~16世紀前半にかけて、津軽など周辺地域への進出を図り、また久慈(くじ)氏に養子を入れたり、北(きた)氏や東(ひがし)氏を取り込んで一門化するなど、勢力を拡大していきます。
また信時の子の南部信義(のぶよし)はこの当時の極官(=辿り着ける一番上の官職)である修理大夫に任官するなど、三戸南部氏が一族内で大きな権勢を誇っていたことを示しています。
この中央との結びつきが、当時の三戸南部氏の本城であった聖寿寺館(しょうじゅうじだて)跡の発掘によっても裏付けられているそうで、室町幕府の足利将軍邸と同じ構造で、権威の象徴となっていた四角い館=方形居館(ほうけいきょかん)を南部一族の中で唯一作っていたり、金メッキの建具を使っていたりと、権力の強化・中央との結びつきを感じさせる発見が相次いでいるとか。
南部晴政の登場と南部家の混乱
1539年(天文8年)、三戸南部氏の南部安政(やすまさ)が上洛し、時の将軍である足利義晴に拝謁して「晴」の一字をもらい、以後「晴政(はるまさ)」を名乗ります。
この晴政は戦国大名としての南部氏を大きく発展させた人物でしたが、実子がいなかったため、叔父で一族内の有力者でもあった石川高信(いしかわたかのぶ)の子の信直(のぶなお)に娘を嫁がせて婿養子とします。
ここからは「あるある」ですが、その後に実子の晴継(はるつぐ)が誕生してしまうと信直は廃嫡(継嗣返上)となります。
廃嫡前には晴政による信直の暗殺計画があったという話もあるのですが、史料によって時期や状況が異なり、事実かどうかは不明です。
当然、信直派についた勢力(北氏・南氏)との対立も生まれ、家中に混乱が生じます。
榎本先生が調べてくださった(また監修の帆船ハッカさんからアドバイスいただいた)資料等によると、この時期に南部氏が抱えていた問題として「八戸南部をはじめ、有力な一族を多く抱えてしまってコントロールしきれていない」がありました。
八戸以外にも、九戸氏や四戸氏など南部一族の各庶家はそれぞれに領地や城を持ち、「家風(かふう)」と呼ばれる家臣団もいました。事指揮権や裁判権も有するなど個々が独立しており、宗家といえども介入できなかったようです。
また九戸氏と久慈氏は強く結びついており、しかもその久慈氏は大浦氏との関係も深く(大浦為信は久慈氏の出身説が有力)、宗家の立場が盤石ではなかったようです。
その証拠に大浦為信は1589年(天正17年)に蜂起して津軽独立に向けて動き出すわけですが、為信がどの時期から動きはじめていたかについては現在も研究者の間で議論されている状態です。
このほかにも出羽の下国(安東)愛季がたびたび南部領を狙うなど、外部にも不安要素がありました。
このような状況で晴政と晴継が相次いで亡くなり(順番が逆という説も)、三戸南部の当主が空席になってしまいます。
候補には廃嫡された石川信直(この時点では田子信直)と九戸実親(九戸政実の弟で晴政の次女が正室)というふたりの婿養子がおり、南部一族の有力者である北信愛が支持した信直が改めて三戸南部氏の当主になりました。
なお家督相続の時期ですが、1582年(天正10年)末には書状から確実視されており、最近の研究では1581年(天正9年)頃ではないかと考えられています。
ちなみに大浦為信ですが、じつはこのときせっかく手に入れた南津軽を手放して信直への臣従を示したようです。この背景には、安東氏による攻撃があった模様で、南部と安東の双方を敵に回すことはできないため、降伏したと思われます。
大浦為信の独立と九戸政実の乱
九戸政実は信直の当主就任を認めたものの、1590年(天正18年)に挙兵した大浦為信の討伐をサボタージュします。結果、浪岡城は落城し、為信による津軽独立は達成されることに。
(見方によっては政実が為信をアシストしたとも)
南部信直は他の東北諸大名に先立ち、1586年(天正14年)には豊臣政権と誼を通じています。その翌年には北信愛が取次を担当した前田利家を訪問しています。
余談ですが、このときに信愛が残した覚書(「北松斎手扣」「北松斎覚書」)に金沢城に天守が存在したことが書かれています。
一方、大浦為信は中央工作が遅れたものの、小田原攻めの際には信直より早く陣中に入って秀吉を説得、津軽の所領を安堵するという朱印状を受け取り、豊臣系大名としての立場を許されました。
なお「なぜ戦国大名は名字を変えたのか」の回では1593年(文禄2年)に伏見城で秀吉と対面したときから津軽と名乗ったらしいと紹介しましたが、それより2年早い1591年(天正19年)に出された豊臣秀吉の朱印状の宛名が『津軽右京亮』となっていることがわかりました。あわせて領地安堵についても1590年(天正18年)12月の上洛時から1591年(天正19年)6月の九戸一揆討伐の際に軍役動員されるまでの間のことだと考えられているそうです。
さて、1591年(天正19年)に起きた「九戸政実の乱」は豊臣政権によって討伐されますが、見落としてはならないのは四戸(櫛引)氏、七戸氏、久慈氏など南部一族の多くが(宗家であったはずの三戸南部氏ではなく)九戸氏に加担していることです(一戸氏はすでに断絶)。
もちろんまとめて粛清されてしまうのですが、九戸氏単独の反乱ではなかったという点は大事なポイントのような気がします。
この反乱の理由については、よくある信直が当主に就任する際の対立が遺恨となって……というような話ではなく、中央(=豊臣政権)の干渉(奥州仕置)に対する地方勢力の抵抗という側面もあったようです。
また『家からみる江戸大名 南部家 盛岡藩』(兼平賢治、吉川弘文館)によれば、「政実は為信が独立した時と同じように、南部の勢力さえ削れば独立できると思っていた。しかしこの時にはすでに中央政権の論理が成立していて、豊臣政権としては反乱を放置できなかったという事情があったのでは」と政実が時流を読み違えたという感じで紹介されていました。
けっきょく九戸政実の乱は奥州再仕置軍によって鎮圧されるわけですが、この経緯を八戸市博物館からは「三戸南部家当主南部信直が秀吉から所領安堵の朱印状を得て、他力によって惣領になった」「一揆の中でも一戸家・四戸家・七戸家・九戸氏・浄法寺氏・久慈氏などは、三戸南部家が惣領になることを認めず(乱が勃発する)」「九戸一揆を自力で制圧できなかった三戸南部家は、豊臣奥羽仕置軍の援軍を得て九戸方を倒し、他力によって南部七郡を運営する立場になる」と説明いただきました。
豊臣政権を頼ることで三戸南部氏は一族のトップ(宗家)としての立場を守られ、またその代償として服従を誓わされたと言えるのではないでしょうか。
盛岡藩南部氏と弘前藩津軽氏
(独立に失敗した九戸氏はさておき)うまく独立に成功した津軽氏、一族の分裂を許しながらも中央との関係により家を存続させた南部氏――戦国時代に一族が内紛を起こし、分裂するのはよくある話ですが、そのいずれもが大名として江戸時代まで残ったケースは他に例を知りません。
ただ成立の経緯からか、この両家の仲は険悪だったようです。
南部氏の歴史に不明瞭な部分が多いのも、記録がないだけでなく、この両家の記録に食い違っている点が多く見られることにあります。
(それぞれが自己正当化するために歴史をまとめるので当然ですし、両方とも事実ではないこともある)
南部家は盛岡藩10万石の大名として江戸時代を迎えましたが、初代藩主・南部利直の子で3代・南部重直が後継者を決めることなく死去。
通例であれば無嗣断絶になるところを幕府の温情により、重直の弟ふたりがそれぞれ重信=盛岡藩8万石、直房=八戸藩2万石として相続させました。なお八戸藩については間違いなく新規立藩なのですが、南部藩の扱いについては諸説あり、兼平賢治先生は存続(単なる家督相続)、千葉一大先生は新規取り立て(新規立藩)扱いとすべきと議論があります。
相馬大作事件
その後、幕末になると南部藩は北方(ロシア)対策に従事したことで20万石への高直し(土地が増えたのではなく名目のみの石高アップ)が行なわれ、また津軽藩も10万石への高直しがありました。
そうした状況で起きたのが「相馬大作事件」です。
相馬大作事件(そうまだいさくじけん)
下斗米秀之進(しもとまいひでのしん)が偽名として「相馬大作(そうまだいさく)」を名乗っていたことから「相馬大作事件」と呼ばれている。
盛岡藩主・南部利敬(としたか)の死により利用(としもち)が後を継ぐが、もともと家臣筋でしかない津軽寧親(やすちか)と家格が逆転したことに不満を持ち、寧親暗殺を計画したが失敗。秀之進は逮捕され処刑に。
事件の背景にあるのが両家の面子の問題です。
両家が高直しを受けた際、同時に官位・官職の上昇も行われるのですが、「津軽家はもっと官位・官職が上がって南部家と同格になる」という噂を聞いた南部家側の当主が「もともとは分家で格下の津軽に並ばれるとは」と気を病んで亡くなってしまいます。
当主が交代した南部家は一時的とはいえ無位無官になり、津軽家は(生きていた頃の前当主と)同格の官位・官職(従四位下・侍従)となり、そのことに腹を立てた秀之進が襲撃を計画したと。
別の説では「列強諸国の動きが活発になり危機的な状況となっているにも関わらず、大名たちは官位官職のために賄賂をばら撒くなど、目に余る」と、こちらは正義感に燃えての世直しといった感じの理由となっています。
この襲撃計画は事前に露見して失敗するのですが、江戸の町民たちは「自昼堂々と亡君の仇討ちに挑むとは立派だ」とかつての赤穂浪士の再来と称賛し、一方で「襲撃を恐れて大名行列の道を変えるとは、武士の風上にも置けない」と津軽藩の名声が下がることに。
番組では「赤穂浪士の時代ならともかく、幕末になっても暴力で解決することが賛美されたの?」と発言したのですが、考えてみれば幕末だからこそかもしれませんね。
桜田門外の変を筆頭に江戸でもクーデターが起こるようになり、京都では新選組が人を斬りまくってたわけですから。
まとめ・感想
榎本先生からは以下のようなコメントをいただいています。
・とにかく史料が残っていないので、戦国時代以前のことはよくわからない。そもそも家系図も歴史も書き換えるのが当たり前という時代の常識を考えれば仕方のないことでもある(今になってもはっきりしたことがわからないのは史料が燃えたせい)。それでもどうにわかることは分かってきた。
・一方で、内部分裂しまくったり、分裂したまま江戸時代へ残ったのは、領地が広大だったせいじゃないかと思われる。一人のリーダーが全てを統治するのに無理があるし、また複数のリーダーを許容するくらいに広いということではないだろうか。
ぼくの感想としては、南部氏もいろいろ研究が進んでいて、少しずつ明らかになってきているんだなということです。ちょうど先日「厳島の戦い」についての最新研究をいろいろ整理してまとめていたのですが、つい最近まで(なんなら現在も)語られている通説がじつは正しくなかったということがいろいろありました。
北条早雲の素浪人説などもそうですが、歴史研究家の先生方のおかげでどんどんアップデートされるので定期的に整理するのは大事ですね。
今回は大名家シリーズのテストとして収録しましたが、伊達氏とか島津氏とかほかの大名家についてもやりたいなと思いました。
江戸までは続かなかったですが千葉氏とかも知らないことだらけですし、全国各地の歴史を知って、そこへ出かけるきっかけにもしたいです。
盛岡と弘前には行ったことがあるのですが、根城や聖寿寺館にはまだ行ったことがないので、「学び」と「旅」を両方楽しみたいなとあらためて思いました。
参考文献等
監修
帆船ハッカさん
こちらのツイートに大変感銘を受け、監修をお願いしました。
陸奥南部氏研究、ここ三~四十年の研究で様々な発見や事実がたくさんあったのに、『南部氏の歴史は謎ばかりで分からない』って言葉で片づけるの、本当にやめない、って思ってる。
— 帆船ハッカ (@kotosakikotoko) 2023年11月14日
そりゃいまだに分からんこと多いですよ。けどいままで蓄積された研究や分かった事も踏まえずそれ言うのは違うやろって。
ご協力いただいたみなさま
- 八戸市博物館
- 鰺ヶ沢町教育委員会
- 三戸町教育委員会
- 九戸村教育委員会
- 青森県環境生活部県民生活文化課文化・NPO活動支援グループ(県史担当)
参考文献
書籍
- ニッポニカ
- 世界大百科事典
- 国史大辞典
- 斉藤利男『戦国大名南部氏の一族と城館』戎光祥出版
- 熊谷隆次『戦国の北奥羽南部氏』デーリー東北新聞社
- 森嘉兵衛『中世武士選書 南部信直』戎光祥出版
- 兼平賢治『家からみる江戸大名 南部家 盛岡藩』吉川弘文館
- 『新編八戸市史通史編Ⅰ』八戸市史編纂委員会
- 『県史 青森県の歴史』
- 東北大学日本史研究室『東北史講義 古代中世編』ちくま新書
- 遠藤ゆり子、竹井英文『戦国武将列伝 1 東北編』戎光祥出版社
- 福田千鶴『新選 御家騒動〈上〉』新人物往来社
- 兼平賢治『近世武家社会の形成と展開』吉川弘文館
- 下斗米哲明『文政四年の激震 相馬大作事件』寿郎社
- 『ふる里なんぶ』南部町歴史研究会
論文
- 滝尻侑貴 南部氏の正月行事にみる領主関係
- 熊谷隆次 戦国期南部の「一家」―糠部郡の政治的秩序―
- 熊谷隆次 南部信直の元服状
- 千葉一大 盛岡・八戸両藩の分立 経緯の再検討と考察(上下)
- 千葉一大 「雑書」がない! 「盛岡藩家老席雑書」考
サイト
青森県史デジタルアーカイブスシステム
https://kenshi-archives.pref.aomori.lg.jp/contents/kenshi-front/index.html
https://kenshi-archives.pref.aomori.lg.jp/il/meta_pub/G0000004t