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攻城団テレビで相撲の歴史について話をしました

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今回は相撲の歴史について榎本先生に教えてもらいました。
信長が何度も相撲大会を主催したとか、山内一豊が相撲大会で虐殺したなど、戦国時代にはいろいろと相撲にちなんだエピソードがありますが、どうも江戸時代には藩のお抱え力士もいたそうです。
そこで今回は相撲の起源(ルーツ)から、現代の大相撲につながるまでの歴史をざっくり1時間ほどで教わりました。


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相撲のルーツ

まず相撲の起源ですが、これは「古事記」や「日本書紀」に登場する力比べだと言われています。
番組中でも出雲神話でタケミカヅチとタケミナカタが戦ったとか、野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹶速(たいまのけはや)の力比べがルーツだとか言われてます。
ほかにも中央アジアから中国、朝鮮というルートで葬送の儀礼といっしょに入ってきたという説や、九州の民族である隼人が相撲的なものを行っていたということから南方から農耕の儀礼といっしょに入ってきた説などいろいろあるそうです。

榎本先生によれば、「取っ組み合い」は世界的に見いだせるものなので日本国内で自然発生したと考えることもできるだろうし、複数のルートで入ってきた文化が混ざり合って生まれたとも考えられるのではないかとのことでした。

ちなみに「すもう」の漢字は現在は「相撲」と書きますが、明治時代には「角力」と書くことが多かったようです。さらに遡ると、江戸時代には併用、奈良や平安時代には相撲が主だったとか。
この「相撲」も「角力」も中国から仏教の経典などとともに伝わったそうです。

宮中行事としての相撲から武家相撲へ

飛鳥・奈良時代から行われていた相撲が、平安時代には宮中行事としての「相撲節会(すまいのせちえ)」へ発展します。これは射礼(じゃらい)・騎射(うまゆみ)と並ぶ三度節(さんどせち)のひとつとされ、相撲をとるために全国から「相撲人(すまいびと)」と呼ばれる力自慢が集められたとか。

この相撲節会は平安時代の終わり頃に衰退していきます(鎌倉時代後期まで続いた説もあり)。
その一方で、相撲の中心は武家に移っていきます。つまり武士の素手格闘訓練のための武術としての相撲です。
鎌倉時代には源頼朝はじめ4代将軍の頃までは積極的に相撲が奨励され、また「この武士はすごい」という褒め言葉として「弓馬の達人」や「膂力(りょりょく、つまり力が強い)」と並んで「相撲の達人」という評価が用いられたそうです。

なお相撲節会の担い手だった相撲人たちは、武士としてその力と技術を振るったり、あるいは農村に戻って相撲を伝えるなどして民間の相撲を発展させていきます。
宮中行事から連なる神事としての相撲と、実用的な訓練や能力評価としての相撲(武家相撲)にわかれていったと考えられます。

時代が進み、室町時代後期になると、半職業人としての相撲人がまず京都・伏見から現れ、巡業を始めます。
庶民の間では辻相撲や草相撲と呼ばれる民間の相撲が盛んに行われ、戦国大名も武術としての相撲を行わせました。
このひとりが織田信長で、信長は上覧相撲を毎年開催するほどの相撲好きで、『信長公記』にも相撲大会で活躍した浪人を召し抱えたとか、相撲大会に1500人もの参加者がいたとか、たびたび相撲行事についての記述が登場します。

番組ではこのほかにも、蒲生氏郷、伊達政宗、島津斉彬と西郷隆盛、山内一豊らのエピソードを紹介していますが、徳川家康が「相撲をやるなら畳の裏を返せ。畳の縁がすり減ってお茶の師匠が怒る」と注意したという逸話はおそらく創作でしょうけど、そのくらい相撲を取ることが日常的に行われていた裏返しでもありますね。

勧進相撲から興行・スポーツとしての相撲へ

江戸初期、京都・大坂から勧進相撲(勧進=寺社や橋の建立や復興のための寄付目的で行われる相撲が、やがて普通に営利的な興行に)が出現します。
また盛り場では投げ銭目当ての見せ物としての辻相撲も盛んになり、同時にただのケンカと変わらないような辻相撲も行われていましたが、治安悪化を危惧した幕府により禁止されます。

これが解禁されたのが30年後、徳川吉宗の時代で、その背景には幕府の財政悪化がありました。
つまり寺社に対して幕府が金を出すのを抑制するために(コストカット)、勧進相撲を許可して自前で資金を集めるようにさせた(規制緩和)わけです。

この流れにおいて、公的な許可を得るために、興行の責任者および運営組織(年寄=親方たちが運営する江戸相撲会所)を決め、勝負の決まり手(四十八手)や禁じ手を明確にし、さらに現在の相撲では当然のように存在する「土俵」ができるなど、体制やルールが整備されていきました。

当時はまだ京都・大坂が中心でしたが、宝暦や明和の頃になると江戸へ移ってきます。
なぜか。これが今回のテーマの発端でもある「江戸時代には藩のお抱え力士がいた」につながります。つまり藩主がパトロンになる以上、自分も見たいので(参勤交代で江戸詰のため)自分がいる江戸で開催することが求められたわけです。

ただ注意が必要なのは、お抱え力士がいた藩は全体からするとごく少数だったということです。
まあ新聞社のすべてがプロ野球チームを持ってるわけでもないし、自動車メーカーのすべてがJリーグクライブのスポンサーになってるわけでもないので、これは現代でも同じですね。
ちなみにお抱え力士の場合はユニフォームの代わりに番付表に藩の名前が載ったそうです。

お抱え力士がいた主な藩として、江戸前期には紀州・尾張の両徳川家、中期以降には奥羽藩南部家、仙台藩伊達家(名儀のみ白石藩片倉家)、庄内藩酒井家、姫路藩酒井家、出雲藩松平家、鳥取藩池田家、阿波藩蜂須賀家、高松藩松平家、久留米藩有馬家、熊本藩細川家などがあります。

またこれらの藩がずっと力士のパトロンになっていたかというとそうでもなくて、あくまでも藩主のパーソナリティというか、相撲好きかどうかで決まったようです。
戦乱もなく、江戸詰が基本の江戸大名にとって、趣味や道楽は暇つぶしの観点でも重要になりますが、その対象として茶道や華道と同じように相撲もあったのかもしれません。

なお今回このテーマを取り上げたのは、団員のたまさんから2019年に「江戸時代にはお抱え力士がいた藩があったので、これらの藩の居城(藩庁)をまとめたバッジはどうか」というアイデアをいただいたのが発端です。
その際にいただいた参考資料がこちらです。各時期における藩が抱えていた幕内力士の人数です。

江戸時代の各藩抱え力士一覧【出典:日本相撲史(酒井忠正)】
年月 南部 仙台 出雲 久留米 阿波 小倉 庄内 因幡 薩摩 丸亀 讃岐(高松) 姫路 長州 平戸 肥後 島原 唐津
1753年(宝暦3年)10月 3 4 4                            
1764年(明和元年)10月                                  
1772年(安永元年)10月 6 3 2       1 1 2                
1781年(天明元年)3月   7 1 7 3   1     1              
1789年(寛政元年)3月 4 4 3 8 4 2 2     1             1
1795年(寛政7年)3月 1 4 7 7 6 1 4     1             1
1801年(享和元年)3月 4 3 10 12 4   3 3 1 1 1            
1804年(文化元年)3月 3     4     1 4                  
1818年(文政元年)3月 1       2     1 1     2          
1831年(天保2年)2月     4             1   1 5 2     1
1845年(弘化2年)3月 3 1         1     1   1   3 2   1
1848年(嘉永元年)11月 2 1           1   2   2   2 1    
1855年(安政2年)2月   1         2 2   4 1 1          
1860年(万延元年)10月 1       4         1   1     2 2  
1865年(慶応元年)11月         2       3 1         1 2  
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出雲藩といえば松平不昧が有名ですが、まさに彼が藩主をつとめた1767年(明和4年)から1806年(文化3年)の間に集中してますね。
不昧は江戸時代の代表的茶人としても知られていますが、好角家(相撲ファン)でもありました。ほかにも金魚好きだったとかいろいろ伝わってます。
この不昧が抱えたのが史上最強の横綱とも言われる、雷電為右衛門です。不昧の名も、雷電の名も知っていましたが、ふたりに関係があることは今回初めて知りました。
こういう知識と知識が線でつながる瞬間が最高におもしろいんですよね。

(左)松平不眛像(右)雷電為右衛門

こうして江戸時代の中期以降は相撲が人気となり、幕末の江戸三大娯楽として歌舞伎、吉原遊郭、相撲と数えられるほどでした。
ペリーが二度目に来航した際には、幕府側のもてなしとして力士が登場し、米俵を軽々と持ち運んだり、稽古相撲を見せたり、パフォーマンスを披露したそうです。

相撲は国技なのか?

江戸と上方の相撲会所が1925年(大正14年)に合併し、日本相撲協会になって現在へ至ります。つまり、いまぼくらがテレビで見ている大相撲は江戸時代ともつながっているわけですね。

最後にひとつ、(ぼくも含め)相撲を国技と思っている方は多いと思いますが、公式な文書で国技として定められているわけではありません。
世界には国技を法的に定めている国もありますが、日本の場合は非公式な国技として相撲や武道が認知されています。

その経緯がおもしろくて、端的に言うと「両国国技館」という名前が国技の印象を強めたということらしいです。
小説家の江見水蔭(えみ すいいん)が当時まだ相撲館と呼ばれていた会場での相撲初披露を宣伝する文章を書いたのですが、そこに「角力は日本の国技」という言葉があったそうです。これをヒントに国技館という名称に決まったそうです。
今回見てきたように、相撲は歴史的にも古くからある儀式であり競技なので、国技と呼んでも差し支えはないと思いますが、こういう背景は知っておくといいかも。

じつはこの江見水蔭さんは「日本三大陣屋」の名付け親でもあります。
彼が書いた「長州徳山・越前敦賀・上総飯野これを日本三陣屋という」という文章が、その根拠になっているので、相撲だけじゃなくお城とも関わりの深い方です。

kojodan.jp

とまあ相撲の歴史をざっと教わったわけですが、知らないことだらけでおもしろかったです。
「お抱え力士」のバッジは来年にはつくりたいなと思っているので楽しみにしていてください!

最後に榎本先生のまとめコメントを紹介して終わります。

相撲って本当に複雑な存在だなと感じさせられた。儀式であり、見せ物でもある。武術だった時期もあり、喧嘩だった時期もあり、今はスポーツ。中央のものでもあるけれど、地方のものでもある。権力者と結びついてもいるけれど、庶民の熱烈な支持なくては存在しなかった。あらゆる階層と結びついた、あらゆる要素を持つものだったので国技になりえたのかも知れない。

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参考文献リスト

  • 国史大辞典
  • ニッポニカ
  • 世界大百科事典
  • 土屋喜敬『相撲』(法政大学出版局)
  • 池田雅雄『大相撲歴史入門』(角川ソフィア文庫)
  • 三田村鳶魚『侠客と角力』(ディスカバリー選書)
  • 小林基芳『歴史の中の草相撲』(22世紀アート)
  • 新田一郎『相撲の歴史』(講談社学術文庫)
  • 風見明『相撲、国技となる』(大修館書店)

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