榎本秋の「クーデターで読み解く日本史」
クーデター。一般的には「非合法の、武力的な手段で政権を奪取しようとすること」を意味する言葉です。日本では「~の乱」「~の変」などという言葉が馴染み深いでしょうか。
本連載のコンセプトはこのクーデターという言葉をキーワードに古代から近世までの日本史を追いかけていくことです。陰謀未遂や武力を伴わない政変についてもあわせて扱うのでご注意ください。
ただ、もしかしたら「クーデターって何がそんなに面白いの?」と疑間を持つ人もいるかもしれませんので、少し説明をさせてください。
私個人の考え方としては、クーデターとは「男のロマン」です。なぜなら、クーデターこそはそれまで綿々と続く歴史の流れで蓄積してきたエネルギーが吹き上がる瞬間であり、歴史的ダイナミズムの最たるものだからです。
クーデターといえば「権力者が突然殺害される」とか、「家臣団が突如謀反する」というイメージが強いのではないでしょうか。「突然」「突如」という言葉に代表されるように、何が何だかわからないがとにかくそれまでの主君や権力構造が否定された、というわけです。
しかし、この見方は正しくないと思われます。クーデターが起きるにあたっては、必ずその前に伏線があるからです。それは単純な権力闘争のこともあれば、社会構造の変化でパワーバランスが崩れたり(貨幣経済が発達して武士が借金まみれ!)、外敵の接近で危機感が増したり(西洋列強に立ち向かうためには新しい国家体制が必要!)、といった事情であることも多いようです。そうした諸々の要素が積み重なり、内圧が上昇し続ければ、いつか必ず臨界点を突破する――そうして起きた爆発こそがクーデターなのです。
だからクーデターは魅力的で、面白い、ということになります。そこにあるのは単純な暗殺や戦争ではなく、蓄積された要素の結実であり、しかもそれが短期間に爆発するからです。そしてもちろん、クーデターの結果はその後の歴史に大なり小なりの影響を残します。
私がこのようなクーデターの面白さに気づくきっかけになったのは、本書で最初に扱っているクーデターでもある「乙巳の変(あるいは『大化の改新』)」です。中大兄皇子による蘇我入鹿暗殺をクライマックスとするこの事件は「長く政治を独占してきた傲慢な蘇我氏に対する反発」と一言で片付けられるのが普通です。
しかし、実際にはそれだけではありませんでした! 実は乙巳の変の時代、日本を取り巻く東アジア情勢は混迷の渦中にありました。各地で反乱やクーデターがあり、アジア情勢に詳しい者たちはその波がいつ日本へ到達してもおかしくないという危機感を共有していたようなのです。
新たな国家はどんな形であるべきか、その中心にいるのは誰であるべきか。中大兄皇子だけでなく、実は蘇我氏方にも将来に対するビジョンがあり、二つの意思がぶつかり合った結果、先に実力行使へ動いたのが中大兄皇子だった、というわけなのです。
このような歴史の裏に隠されているであろう事情に思いをめぐらせて以来、私はクーデターの面白さと魅力に着目するようになった、というわけです。
さらにいえば、大きな事件には必ず伏線があり、またその後に爪あとを残す――というのは必ずしも歴史的なクーデターに限った話ではありません。
たとえば、2009年には自民党の野党陥落と民主党による政権交代がありました。この時の政権交代は二大政党制への転換を思わせるものであり、当時の熱狂は凄まじく、それを記憶している人も多いはずです。しかし、この一件も単純に一度の選挙における勝ち負けやその時点での人気の多寡といった単純な構造で語れるものではありません。その背景には戦後の現代日本史に連なる多種多様な事情が存在し、それらの蓄積と交錯を経て巻き起こったのが歴史的な政権交代だったのです。
このように、単純に事件の経過に注目するだけでなく、「どうしてそうなったのか」「この後どうなるのか」というクーデターの前後に目を向けることで、歴史を大きな流れとして読み取ることができるようになるものです。本連載の目的はまさにその一点にあります。ぜひ、「クーデターの向こうに透けて見える歴史」を楽しんでください。
各事件項目の冒頭には発生した年と、事件の関係者を提示しています。その際、勝者には○、敗者には×をつけ、引き分けの場合や「勝者とはとても言えない」ケースなどは△をつけました。
大政奉還により幕府は倒幕勢力との武力衝突を回避することに成功しましたが、徳川家を完全に排除したい薩長方はあの手この手で幕府を追い込み、最終的には鳥羽・伏見の戦いと戊辰戦争と武力による倒幕を実現することになります。
所領は大きくても江戸から遠く幕政にも参加させないという外様大名の格付けが幕藩体制のキモでしたが、薩摩藩と長州藩という大藩が手を結んだことで、いよいよ鎌倉幕府以来700年つづいた武士による政治が終わります。 なおこの時点では慶喜は征夷大将軍職を…
幕末を舞台にした大河ドラマでは必ず出てくるのがこの長州征伐ですね。 倒幕の機運が高まっていく中で起きたこの幕府方の手痛い敗戦が、この後の歴史の流れを決定づけたように思います。
時期も同じで名前も似ているのでややこしいのですが、坂下門というのはいまの皇居の入口です(いまある門は向きを変えて再建されたもの)。 安藤信正は「背中の傷は武士の恥」と罷免されたわけですが、急に襲われたらそりゃ逃げますよね。
要人の暗殺として歴史上もっとも有名な事件がこの桜田門外の変かもしれません。彦根藩邸から桜田門までは約400m程度しかないのですが、雪で視界が悪かったこともあり、不意をつかれました。 ちなみに現在、水戸市と彦根市は親善都市提携を結んでいるそうで…
大塩平八郎の乱の影響を受けて、各地で世直し一揆のフォロワーが生まれました。 生田万の乱もそのひとつでしたが、庄屋の屋敷を襲撃したのはわずか6人とかなり小規模だったようです。
与力というのは町奉行を補佐する武士のことで、部下の同心を監督する役人でした。 困窮する民衆のため、元与力の大塩平八郎は自らの蔵書5万冊を売って救済していましたが、これを奉行所は「売名行為」とみなしてまともに取り合わなかったため、武装蜂起にい…
江戸幕府は将軍交代のたびに側近が入れ替わるため、わりと現代の内閣に近いところがあるかもしれませんね。 田沼意次にとって強力な後ろ盾だった将軍・徳川家治を毒殺するなんて常識的に考えればありえないことなのにこの時代からフェイクニュースによる妨害…
赤穂事件で浅野内匠頭がなぜ吉良上野介を斬りつけたのかはわからないのですが、朝廷の勅使を迎えていたタイミングの悪さもあって喧嘩両成敗とはならず浅野家側に厳しい処罰となりました。 ただ赤穂浪士たちによる仇討ちへの処遇についてはかなり温情があるよ…
江戸時代初期は幕府の支配体制を強化するために多くの大名が改易となりました。 そのため全国的に多くの浪人が生まれることとなり、大坂の陣や島原の乱、そしてこの由井正雪の乱(慶安の変)などで反幕府勢力として蜂起することになります。
島原の乱はかつての土一揆のような領民による武装蜂起ですが、そもそもは有馬晴信が起こした「岡本大八事件」から幕府の禁教令がはじまり、晴信の嫡男・直純が転封を願い出て、その結果として松倉重政が入封していることを考えると、歴史の因果はじつに複雑…
近年では戦国時代を締めくくったのが大坂の陣を言われていますが、これがクーデターかはさておき(単純に大勢力が少勢力を滅亡させたとも言える)歴史的には大きな出来事ですね。
たしかに関ヶ原の戦いも徳川家康によるクーデターと捉えることができるかもしれませんね。 もっとも西軍の総大将は毛利輝元なので家康と石田三成で書状の比較をするのは正しくないかも。とはいえ福島正則や加藤清正などは反三成のために東軍についてますしね…
おそらく日本でもっとも有名なクーデターがこの本能寺の変でしょう。 明智光秀が謀反を起こした理由はわかりませんが、織田信長だけでなくすでに家督を譲られていた嫡男・信忠も同時に京に滞在していたのはまさに千載一遇のチャンスでした。
近年、戦国時代の幕開けとなったのはこの「明応の政変」ではないかと言われています。 家臣によって将軍が勝手に交代させられるという文字通りのクーデターは将軍権威の失墜を決定的なものとさせました。
失墜した幕府の権威を回復するために9代将軍・足利義尚が取った行動は反抗的な守護大名への武力による征伐(鈎の陣)でした。攻撃対象となったのは近江守護・六角高頼でしたが、義尚は京に戻ることなく早逝します。 第二次六角征伐は10代将軍・足利義材によ…
応仁の乱のきっかけともいえる畠山氏の家督争い、すなわち畠山政長と畠山義就の戦いは長期化し、多くの農民が苦しんでいました。 そこで農民たちは一揆を結成すると、両陣営を立ち退かせることに成功したのです。
9代将軍の座をめぐり、兄・義政から将軍就任を約束されていた義視と、せっかく生まれた我が子を将軍にしたい日野富子らが対立した結果、起きたのが文正の政変です。 富子に味方した政所執事・伊勢貞親らが追放されることになりましたが、この火種がのちの応…
日本という国の領域は時代によって変化しますが、東北からさらに北上して北海道に進出がはじまったのが室町時代だそうです。 当然、先住民であるアイヌ人との交流や摩擦が生まれるわけで、最終的には武力衝突となってしまいました。
関東における鎌倉公方と関東管領の対立は収まらず、京の幕府はこれを収拾するために時の将軍・足利義政の弟、足利政知を新公方として送り込むのですが、事態はさらに悪化していくのです。
もうひとつの嘉吉の変がこの禁闕(きんけつ)の変です。足利義満に約束を保護にされた南朝方の残党が三種の神器を奪いに御所を襲撃するという事件でした。
「嘉吉の徳政一揆」とも呼ばれるように土一揆は基本的に徳政一揆でした。 比叡山との関係の強さは暗殺された6代将軍・足利義教が将軍就任前は比叡山延暦寺のトップである天台座主だったことからもわかりますね。
足利義教は多くの有力守護大名の家督相続に介入し、また粛清もしたため「万人恐怖」と呼ばれました。その義教が赤松満祐によって暗殺された際も「自業自得」と記録されたことから当時の人たちにとってもよほどの異端児だったのでしょうね。
鎌倉公方・足利持氏は幕府軍に敗れたものの、そのまま関東が幕府の支配下におさまることに不満をいただいた勢力が蜂起したのが結城合戦です。結城氏朝が遺児を担いで反旗を翻しましたが、幕府軍に討伐されました。
関東に支配権を延ばそうとする幕府(将軍・義教)と鎌倉公方・足利持氏が衝突するのは自然なことでしたが、持氏としてはくじ引きで選ぶくらいなら自分を将軍職にと思うのも当然でしょうね。 結果として関東ではこのあとも戦国時代に入るまで混乱がつづきます…
国一揆の始まりとも言われるのがこの播磨の国一揆です。 播磨守護・赤松満祐の軍兵を追い落とすという事態に発展しましたが、守護代浦上氏らによって鎮圧されました。
凶作、流行病、相次ぐ将軍の代替わりなどの社会不安を背景に起きたのが正長の土一揆でした。 土一揆は「つちいっき」とも「どいっき」とも読むそうですが、この「土」は当時の農民や百姓のことを「土民」と称したことにちなんでいるとか。
上杉禅秀の乱は鎌倉公方とそれを補佐する関東管領の対立により起こった事件で、そこに山内上杉家と犬懸上杉家という上杉氏内の争いもあり武装蜂起にいたりました。 さらに時の将軍・足利義持の弟、足利義嗣が禅秀に呼応するなど幕府も巻き込まれています。
つづいて義満が排除を試みた有力守護大名は大内義弘でした。しかしこの乱は大内氏単独のものではなく、先の土岐康行の乱で没落していた美濃の土岐詮直や、明徳の乱で滅ぼされた山名氏清の嫡男・宮田時清、さらには鎌倉公方・足利満兼も挙兵するなど、幕府と…
「六分の一殿」と呼ばれた山名氏一族の権力をそぐため、将軍・義満によって画策されたのが明徳の乱です。 この乱の結果、山名氏の領国は但馬・因幡・伯耆の3か国に減らされ、その他の旧領は論功行賞で畠山・大内・一色・赤松諸氏に分与されました。