1456年(康正2年) ○和人 ×コシャマイン
室町時代は蝦夷ヶ島(えぞがしま)――すなわち北海道への進出が始まった時代でもあった。
道南地方に本州からやってきた和人たちが定着し、交易が盛んになっていたのである。自然、古くからこの地に住み着いていたアイヌとの間にも交流がもたれたが、やがて摩擦を生むようにもなった。
そして1456年(康正2年)、和人の鍛冶屋とアイヌが注文された小刀の価格・質についてもめた末に和人がアイヌを殺害する事件が発生。これを機にアイヌの反和人感情が爆発し、武装蜂起となったのである。
リーダーになったアイヌ首長コシャマイン(胡奢魔尹)の名をとって、コシャマインの戦いと呼ばれる。
和人の集落(館と呼ばれる)を次々と攻め落としたアイヌに立ち向かったのが、この頃蠣崎氏(かきざきし)の客人だった武田信広(たけだ のぶひろ)という人物である。
彼がコシャマイン父子を弓矢で殺害したことによってアイヌとの争いはいったん終結した。
その後、信広は婿養子として蠣崎氏に入り、蝦夷に勢力を広げる松前氏(まつまえし)の先祖となる。
しかし和人とアイヌの関係は完仝に修復されたわけではなく、一度は道央にまで進出していた和人たちは16世紀半ば頃まで道南にとどまり、またアイヌとの争いも何度か勃発するのだった。
しかし、この頃には戦国大名となっていた松前氏が1669年(寛文9年)にシャクシャインの戦いでアイヌ首長シャクシャインを謀殺するとアイヌは道東に追いやられてしまった。